武市による土佐勤王党の結成

 文久元年(1861)6月、武市半平太は文武修業のため再び江戸に出て、大石弥太郎から尊王論が勃興する時勢を聞き及んだ。大石の紹介により、住谷寅之助、岩間金平、樺山三円、桂小五郎、久坂玄瑞ら水戸藩、薩摩藩、長州藩の即時攘夷派の志士と交流を始めた。特に、久坂とは肝胆相照らす仲となった。武市は彼らと時勢を論じ、深く感じるところがあり、大石、島村衛吉、池内蔵太、河野敏鎌らと藩内の尊王志士の組織化を決意したのだ。

 同年8月、武市らによって、江戸で土佐勤王党が結成された。その目的は、大石弥太郎の起草による盟約書の一節によると、一度、錦の御旗が掲がれば、団結して火の中水の中どこへでも突出することを神明にかけて誓い、上は孝明天皇の御心を安んじ奉り、老公(容堂)の遺志を継ぎ、下は万民の災患を取り除くことにあった。

 謹慎中の容堂の意志を継ぎ、朝廷のために命を惜しまず、攘夷と国事にまい進する覚悟を謳っている。9月4日、武市は早速江戸を出立し、一旦土佐に帰国して同士糾合を企図した。いよいよ、武市が政治の表舞台に登場したのだ。