土佐勤王党の構成と武市の動向

 土佐勤王党の構成員の総数について、198名(後に脱藩等で吉村虎太郎など7名が名簿から削除)が血盟している。ちなみに、坂本龍馬は9番目であるが、在藩者の中ではトップであった。龍馬の加盟は、おそらく武市の帰藩後の文久元年9月頃と考える。

 構成員の身分の内訳については、判明者の175人中、上士は3人、白札は15人、下士総数は104人(郷士層50人、その他64人)、庄屋は19人、その他(陪臣、僧侶、医師、百姓など)は24人となっている。僅かだが、上士も含まれるなど、身分を横断しているものの、基本的には下士層以下からなる集団であった。

 さて、この頃の武市半平太の動向であるが、桜田門外の変以降、全国的に即時攘夷運動が隆盛となっていた時流に乗り、大目付に対し、薩長両藩とともに上京することや、藩政改革、人材登用などを進言している。さらに、藩内で勢威を拡大し、容堂の股肱の臣である吉田東洋と対立を始めているが、この段階ではさすがに武市らが藩政を動かすに至らなかった。

 武市は、久坂玄瑞に密使(坂本龍馬ら)を派遣して善後策を相談したが、藩を挙げての活動に固執する武市と、草莽崛起を主張する久坂の路線の差異が顕然化するだけだった。龍馬や吉村虎太郎は、久坂に感化を受けて追従する姿勢を示し、脱藩して久坂が目指す義挙への参加を志向したのだ。

久坂玄瑞

 次回は、武市による参政吉田東洋の暗殺の経緯を追い、また、文久期前半の長州・薩摩両藩の中央政局への進出の動向を確認し、藩主山内豊範の上京にかかわる武市の活躍などを詳しく述べたい。