日米修好通商条約の締結

日米修好通商条約 外務省外交史料館蔵 ワールドイメージング, CC BY-SA 3.0, via Wikimedia Commons

 安政4年10月14日、ハリスは江戸に到着し、21日には江戸城において、将軍家定に謁見して、ピアース大統領の親書を奉呈した。いよいよ、日米修好通商条約の締結に向けた交渉が始まるかに見えた。しかし、実際には徳川斉昭を始めとして、通商条約への反対意見も多数存在したため、交渉はなかなか進捗しなかった。

 艦隊の派遣や戦争の開始を示唆するなど、武力を背景にしたハリスの砲艦外交により、12月3日に下田奉行井上清直と海防掛岩瀬忠震を全権に任じ、ようやく交渉が開始された。この間、筆頭老中の堀田正睦の下で外交の推進者となったのは岩瀬であり、主導的な役割を果たし続けたのだ。

 安政5年(1858)3月、堀田は上京して通商条約の勅許を求めたが、孝明天皇から拒絶された。4月23日、彦根藩主井伊直弼が突如として大老に就任し、慶福(家茂)を将軍継嗣と決定、さらに通商条約は堀田らの幕府専断による締結やむなしの意見を抑え、あくまでも大名の意見調整を踏まえた勅許獲得に固執した。しかし、第2次アヘン戦争(アロー号事件)を外圧にしたハリスの圧力も相まって、6月19日、岩瀬の判断で調印したのだ。