(西田 亮介:日本大学危機管理学部教授、社会学者)
公論はどこへ?お作法を乱すと注がれる冷たい視線
現代社会において「公論」はどこに存在するのだろうか。
そもそも公論とは何を指しているのか。簡潔に言えば、公論とは「公に関する議論」のことだが最近そんなことが気になっている。
ここでいうところの「公に関する議論」は、単に「専門性の高い議論」を指すわけでもない。
社会の中で相対的に専門性の高い議論は、どの時代においても大学や学会といった場に存在する。これらの機関や場所は、まさにそのような目的のために存在しているからだ。
政策に関する専門的な議論であれば、政治家たちが集う永田町や、官僚の集まる霞が関、さらには霞が関と頻繁に接触する有識者たちのインナーサークルにおいて、専門的かつ現実的な知見や議論が存在している。それらは公論といえるのだろうか。
そう簡単でもない。
筆者自身、大学に勤める研究者として、本業のひとつの情報通信分野を中心にそれなりに有識者会議や業界団体の会議体に参加した経験がある。また、政治家と政策について交流する機会も少なくない。最近では、国葬儀の評価や政治改革のあり方について、立法府で意見陳述を行ったこともあるのでなんとなく雰囲気は想像できる。
結局、学会には学会特有の、政策には政策特有のお作法が存在し、そこには常連メンバーがいつものように座っており、決まりきった議論の流れや段取りがある。
もしその流れから外れそうになると、冷たい視線が注がれ、時間超過や想定外の議論展開を危惧して、会場には嘆息が溢れることになる。ここで言う「お約束」とは、主に各業界内の話であって、公論という言葉が示すような立場から発せられるものではないことが多い。
要するにそこにあるのは業界の論理だ。したがってこうした専門的とされる場の議論が報道などを通じて一般に持ち込まれると、たちまち議論が紛糾するという光景もしばしば見られる。ネット時代にはなおさらだ。放送法の改正を通じて、NHKのインターネット活用業務を必須業務に「格上げ」したのに、「政治マガジン」などネットのコンテンツが数多姿を消すなどあまりに直感に反する事態も生じている。公論は単に専門的であればよいというわけではなく、手続的正統性だけが満たされていればよいというわけではなく、多くの人たちがきちんと腹落ちしてはじめて公論といえる。
また同じ政策や提案も政権や世間の雰囲気によって、受け止め方が大きく異なることもある。
例えば日本の政界における消費税率引き上げを巡る問題だ。消費税は景気動向に左右されにくく、安定した税収増が期待できることから、その導入以来多くの政権が強い関心を示してきた。しかし、税率引き上げの実現は導入当初から決して容易ではなかった。