新聞・テレビの“非マスメディア化”が公論を難しくさせている

 むろん公論なるものの形成のためには、専門家や政治家だけでなく、一般市民の意見や感覚も含めた幅広い議論の場を設けることが重要になることは明らかだが、そうはいっても現代社会においては、そのような現実的な場の確保が困難になっていることも自明である。

 その背景には、メディア環境の変化がある。かつては新聞やテレビといった大手メディアが読者共同体を囲い込むことによって擬似的な公論形成の中心的役割を果たしていた。そのような環境下においてさえ、著名なメディア史研究者の佐藤卓己は『輿論と世論』(2008年、新潮社)などをはじめとする著作で「輿論(Public Opinion)」と「世論(Popular Sentiments)」の区別と前者の退潮、後者が広く日本社会を覆っていることを懸念している。まともに議論がなされず、雰囲気で政策決定に影響するような状態だと考えてもらって構わない。

 インターネットが中心的なメディアになったことは明らかだが、そのような環境においてはますます憂慮すべき状況が生じている。

 日本新聞協会の調査によれば2023年に新聞の1世帯当たり部数は0.5を割り込み、名実ともに新聞は非マスメディア化しつつある。読者諸兄姉も紙の新聞をいったいどれほど読んでいるだろうか。

 確かにインターネットの普及により情報源が多様化し、個人の意見発信、表明も容易になった。だが、それらは「そのような場合もある」ということであり、信頼できる蓋然性の高い情報が幅広く流通するようになったことを意味するわけではない。そんな媒体は、いま、どこにあるのか。

 筆者は最近「トラストな情報基盤」と呼んでいるが、支局を配置し、記者等が角度の高い1次情報を収集し、デスクと精査し、情報を流通させ、誤報が明らかになれば訂正をすることで、信頼できる蓋然性の高い環境を構築している媒体のことだ。1995年にユーキャンの新語・流行語大賞にノミネートしたことから「インターネット元年」などと呼ばれる時期から30年あまりの時間が流れたが、日本にはいまのところそのようなネットメディアが安定的かつ恒常的に存在できたことはほぼない。それどころかオピニオンメディアや、ブログのエントリーなどを集めるだけのアグリゲーションサイトすら相次いで閉鎖された。

 ネットメディアはオピニオンを超大量に提供するが、信頼できるストレートニュースを安定的に提供できていないのである。

 こうした変化はある意味では民主的に見えるが、意見の分断や偏りを生み出す土壌になっているというのが最近の学説だ。

 自分と似た意見を持つ人々とのみ交流する「エコーチェンバー」や、同意見の膜に包まれているとみなす「フィルターバブル」である。異なる意見との接触が減少し、自分の意見を補強する情報ばかりに触れることで、偏った見方が強化されること、そもそも日本社会がベンチマークとする他国と比べてこうした問題に対する関心が乏しいことなどが近年の『情報通信白書』などでも懸念されている。

 ニュースのキュレーションやリコメンデーション、アルゴリズムの発達により、個人の興味や過去の閲覧履歴に基づいて情報が選別され、そのような情報に多く触れるようになった。

 これまで国民の共通了解や共通認識、要するに前述のような世論を作っていた新聞、テレビ等のマスメディアの凋落もある。これは便利な一方、自分の興味や価値観に合致した情報ばかりに触れる「フィルターバブル」を生み出しているとされる。

 このような技術、サービスの変容が多様な意見を集約し、建設的な議論を行う場としての公論の形成が難しくしている。各々が自分の意見を強化するばかりで、異なる立場の人々との対話や相互理解が欠如しがちだ。このような分断された情報環境は、政治や社会問題に関する議論においても影響を及ぼしているように思われる。なにごとについても議論が難しくなっているのだ。

 例えば、X上で消費税率引き上げの問題では、増税反対派と賛成派がそれぞれの主張を展開しているが、果たして両者それぞれ納得し、態度変容して合意に至るようなことはあるのだろうか。少々考え難い。