(町田 明広:歴史学者)
監察使の派遣と朝廷の強硬姿勢
文久3年(1863)6月以降、日本の対外政略は朝廷の「無二念打払令」(躊躇なく攘夷を実行)と幕府の「襲来打払令」(襲来以外は攘夷を猶予)という、相反する命令が打ち出された。この政令二途という、判断が難しい状況に追い込まれた西国諸藩であったが、実際に攘夷を実行したのは長州藩と鳥取藩という、わずか2藩にとどまった。
勅命(天皇の命令)と台命(将軍の命令)、いずれにも従うことをためらい、ほとんどの藩は日和見的な態度に終始していた。これが現実的であり、かつ常識的である対応と言えるのではないか。
しかし、無二念打払令にもかかわらず、攘夷がなかなか実行されないことに対して、即時攘夷派である三条実美や長州藩は、この情勢を打破するために次なる手を打つことになる。7月17日、国事寄人東園基敬が紀伊に、四条隆謌が播磨に、攘夷実行の監察使としてそれぞれ派遣された。彼らは、速やかな攘夷の実行を命じる勅命をもたらしたのだ。
23日には、京都守護職松平容保に対して、武家伝奏野宮定功・飛鳥井雅典からきわめて厳しい勅命がもたらされた。その内容は、攘夷実行について度々沙汰をしているが、津々浦々でそれがなされていない。今回、紀州加太浦および播州明石浦などへ監察使を差し立てたが、これまで傍観し、畏縮していた藩については、これ以降もこのような姿勢であった場合、官位の召し上げを厳しく命じることになる。ついては、諸藩にその旨を徹底することを求める、というものだった。幕府にとっては、驚天動地な沙汰である。