島津斉彬(ダゲレオタイプ、1857年撮影)

(町田 明広:歴史学者)

斉彬の内乱憂慮と回避工作

 老中松平忠固の工作などから、条約勅許獲得に失敗した老中堀田正睦の帰府後、安政5年(1858)4月23日に井伊直弼が大老に就任した。5月1日、13代将軍徳川家定は継嗣慶福(家茂)に決定したことを大老・老中に達したが、厳秘を宣言した。

井伊直弼像

 5月2日・6月19日の両日、松平春嶽はそのことを秘した井伊に意見を求められ、継嗣は慶喜とすること、条約調印は先延ばしすることを申し入れるも、当然ながら不発に終わった。井伊は継嗣決定について、一橋派に漏れていないか探りを入れたのだ。

 斉彬は、将軍継嗣・条約勅許問題で対立が激化している状況を、「外寇より内乱の方一大事」(島津久光宛、4月27日)と、対外戦より内戦の方が問題であると嘆いた。また、「もはや天下大乱相違なく」(早川五郎兵衛宛、4月28日)と、内乱勃発を危倶したのだ。

 こうした中で、斉彬は幕府に建白書(5月28日)を提出した。これによると、攘夷はもっともだが西欧列強と戦争になれば、大砲・砲台あるいは堅牢の軍艦が必要だが、今の日本には皆無である。戦争をしても、必勝の勝算があるだろうかと、疑問を開陳した。さらに、日本国内で争っている場合でなく、日本が一丸となって富国強兵を推進し、侵略されないような国家建設の必要性を主張した。

 また、斉彬は近衛忠煕宛書簡(6月5日)の中で、攘夷実行をしようにも武備は不十分で、実現は困難であり、残念ながら条約締結はやむを得ない状況にあると説明する。そして、勅許問題をこのまま放置すれば内乱となり、西欧列強につけ込まれて植民地化される可能性もあるとして、条約勅許を懇請した。さらに、老中を始め幕閣は慶喜の将軍継嗣を望んでいると述べ、慶喜擁立への協力を求めたのだ。

近衛忠煕