上野公園の西郷隆盛像 写真/フォトライブラリー

(町田 明広:歴史学者)

西郷隆盛と橋本左内

 安政2年(1855)10月9日、老中首座が阿部正弘から堀田正睦へ交替した。斉彬は、驚愕すると同時に、「溜間ヨリ井(井伊直弼)等の内、閣中ノ儀色々申候故」(松平春嶽宛、10月26日)と、溜問詰の井伊直弼らが堀田を送り込んだのではないかと疑心を抱いた。

堀田正睦

 堀田は開明派で、攘夷を唱える徳川斉昭とは疎遠であった。その斉昭の実子・慶喜を推す一橋派にとっては、回避すべき人事に映ったのだ。その後も阿部は実権を掌握したが、安政4年(1857)6月17日に体調を崩して逝去した。9月には、阿部に罷免された南紀派の上田藩主松平忠固が老中に復帰しており、一橋派の重鎮・阿部の死は同派にとって大打撃となったのだ。

 阿部の急逝によって、一橋派は手詰まりとなったが、閉塞感を打破して活路を見出すため、斉彬は近衛忠煕・松平春嶽・徳川斉昭・伊達宗城らとの連携をより密にした。しかし、藩主という立場上、自由に動けないため西郷隆盛を起用したのだ。西郷は水戸藩士藤田東湖、越前藩士橋本左内らと親交し、水戸藩や越前藩との連絡掛に任じた。

 安政4年10月1日、斉彬は西郷を江戸詰とし、大奥工作と越前藩への協力を命令した。12月6日、西郷は江戸に到着し、2日後には越前藩邸を訪ね、斉彬から春嶽に対する、西郷を家臣同様に心置きなく大奥対策などで使役することを懇請する書簡をもたらした。

 12月8・13日の両日、西郷は橋本左内と会談して「橋公行状略記」(平岡円四郎が慶喜の業績をまとめて書いたものを、左内が体裁を整えたもの)を大奥で配布し、慶喜の継嗣を実現する策略(左内は「秘策」と表現、村田氏寿宛書簡、12月27日)を決定した。原作・平岡、監修・左内、広報・西郷という関係である。

橋本左内

 なお、西郷は斉彬から具体的な工作指示は受けておらず、左内による工作構想に連なったと言えよう。12月14日に西郷・左内の間で書簡が3通往復し、左内から西郷に「橋公行状記略」が送付された。西郷による、大奥工作が始まる。