堀田老中の上京と一橋派の挫折

 安政5年2月、老中堀田正睦は岩瀬忠震らを従え、通商条約の勅許獲得のために自ら上京した。大奥工作が困難を極める中、春嶽は継嗣問題を通商条約締結の勅許と絡めて、解決しようと模索した。その結果、安政5年1月に橋本左内を京都に派遣したのだ。そして、三条実万・青蓮院宮(中川宮・朝彦親王)らに通商条約の勅許および慶喜を将軍継嗣に推す内勅の降下を働きかけた。

岩瀬忠震

 斉彬も内勅降下を願う書状を近衛忠煕・三条に送付し、協力を要請した。西郷も近衛宛ての篤姫の書状を携えて入京したが、南紀派・井伊直弼も堀田の交渉を支援するため、腹心の長野義言を京都に派遣した。長野は朝廷が一橋派に傾く事実を逆転するため、関白九条尚忠を篭絡して南紀派への転換に成功した。

九条尚忠

 関白九条尚忠は、幕府に委任するという勅栽案を起草したが、岩倉具視らが画策した廷臣八十八卿列参事件(3月12日)といった廷臣による反対行動に後押しされた孝明天皇は、条約勅許を拒否するに至った。将軍継嗣に関する内勅は、堀田老中に下賜されたものの、慶喜を将軍継嗣とする3条件「英明・人望・年長」は、九条関白によって削除された。ここに、内勅降下を画策した斉彬ら一橋派の策略は頓挫したのだ。

 次回は、将軍継嗣問題の決着の顛末と斉彬の率兵上京に向けた動向、そして斉彬の最期について、その実相を紐解くことで本シリーズの最後としたい。