斉彬・西郷による幕府への周旋活動

 安政4年12月25日、斉彬はハリスの出府、通商条約の審議や南紀派の動向といった情勢変化に着目し、幕府に建白書を提出した。この中で、将軍継嗣は血統が重要であるとしながらも、このような時勢であるため、年長の継嗣の方が天下の人心を収斂できると述べ、その点で慶喜は器量もあり、年輩でもあり、人望に叶う人物であるとして、強く慶喜を継嗣として推薦した。

タウンゼント・ハリス

 また、同日に斉彬は老中堀田正睦に書簡を発し、慶喜は実父斉昭とはまったく似ても似つかない人物であり、この点は不遜ながら請け負いたいと伝える。斉昭を嫌い、慶喜が新将軍になった場合、斉昭が口出しをしてくるのではと恐れる幕閣や大奥への配慮も示した。このように、斉彬は積極的に慶喜擁立を企図したのだ。

 さて、西郷の大奥工作であるが、左内宛書簡(安政5年(1868)1月19日)によると、篤姫・生島(大奥女官)・小の島(薩摩屋敷老女・篤姫侍女)に働きかけ、大奥工作を開始した。篤姫らから家定生母の本寿院の姉である本立院、また幕医戸田静海へ慶喜が継嗣になる周旋を依頼したことを伝えた。この際、「橋公行状記略」が使用されたのではなかろうか。

 2月10日には、西郷は越前藩士中根雪江から、斉昭の朝廷の実力者である鷹司政通宛書簡を預かり、小の島から生島に託して大奥に広めた。斉昭が通商条約を容認していることを入説して、斉昭が幕府の意向に沿って朝廷工作をしていることを喧伝し、斉昭アレルギーを少しでも緩和しようと試みたのだ。

 しかし、事は順調に運ばなかった。2月27日、西郷から中根に大奥(小の島)密書がもたらされた。そこには、慶喜擁立への家定自身の猛烈な拒否反応があり、本寿院も慶喜継嗣の場合は自害すると家定を脅迫しており、さらに斉昭謀反の噂すらあることが記載されていた。西郷ルートによる大奥工作は、事実上、失敗に帰したのだ。家定・本寿院の慶喜嫌悪は、一橋派の思惑を大きく凌駕するレベルに達していた。

徳川家定