文久3年(1863)6月以降、日本の対外政略は朝廷の「無二念打払令」(躊躇なく攘夷を実行)と幕府の「襲来打払令」(襲来以外は攘夷を猶予)という、相反する命令が打ち出された。この政令二途という、判断が難しい状況に追い込まれた西国諸藩であったが、実際に攘夷を実行したのは長州藩と鳥取藩という、わずか2藩にとどまった。 勅命(天皇の命令)と台命(将軍の命令)、いずれにも従うことをためらい、ほとんどの藩は日和見的な態度に終始していた。これが現実的であり、かつ常識的である対応と言えるのではないか。 しかし、無二念打払令にもかかわらず、攘夷がなかなか実行されないことに対して、即時攘夷派である三条実美や長州藩