歌川広重「本朝名所 大坂天保山」

(町田 明広:歴史学者)

鳥取藩による攘夷実行の実相

 朝廷による無二念打払令が出される直前に、長州藩に次ぐ攘夷が鳥取藩によって実行されていた。しかし、この事実はあまり知られていないのではなかろうか。12代藩主池田慶徳は、水戸藩の徳川斉昭の5男であり、尊王攘夷にまい進し、朝廷からの信任も特に篤かった。

池田慶徳

 文久3年(1863)2月28日、慶徳は摂海守備総督の勅命を賜り、摂海(大坂湾)警衛にあたっていた。このあたりは、慶徳が斉昭の実子であることも影響したであろう。ちなみに慶徳は、幕府を終始擁護したものの、こと対外問題に関しては、あくまでも破約攘夷にこだわり続けたのだ。

 6月14日、鳥取藩は天保山沖に来航したイギリス船に対し、実弾5発を発砲し、攘夷を実行した。この事件は、イギリス船が石炭を要求したことに端を発しており、警衛にあたっていた鳥取藩士が拒絶したところ、イギリス船は測量をしながら戻った。襲来とは言えないものの、攘夷実行の沙汰があるため、鳥取藩は発砲に及んだわけだ。

 しかし、結果として着弾はしておらず、イギリス船はそのまま紀州加太浦の方向に逃げ去った。その報告は、間髪入れずに大坂留守居役より京都藩邸にもたらされた。それに対して、藩邸からは対応が生ぬるいとして、攘夷実行を督促するために用人を下坂させた。鳥取藩にとって、攘夷実行は絶対的な藩の方針であったのだ。まさに、藩主慶徳の破約攘夷の方向性が徹底されていた証左であろう。