家重のもとで地道に頭角を現していく田沼意次
意次は忠光と共に家重を手厚くサポートした。家重の抜てきによって、意次は40歳のときに1万石の大名となっている。
田沼意次といえば、賄賂政治が問題視されながらも、さまざまな商業改革を主導したことで知られる。だが、意外にも家重のもとでは、それほど目覚ましい活躍はしていない。出自が低い新参者にすぎなかった意次には、譜代や門閥層のような人脈もなく、おとなしくせざるを得なかったようだ。
それでも、後宮にこもりがちな家重と、城に出入りする諸大名の間で、意次はうまく立ち回りながら、折衝役としてのポジションを地道に築いていく。月のうちに20日は城中に寝泊まりしたとも伝えられている。
そんな意次が幕政に本格的に参加したのは、宝暦8(1758)年に評定所首座になってからのこと。家重は宝暦10(1760)年3月23日に50歳の賀を迎えたが、それから約1カ月後に忠光が他界。忠光を失ったショックからか、その2カ月後に嫡男の家治に将軍の座を譲っている。
その後、家重は大御所になるも、翌年死去。51年の生涯を閉じた。『徳川実紀』によると、後継者の家治に「田沼意次を重用するように」と遺言を残したという。