(写真:Retsu Motoyoshi、以下同)

 遠く欧州の地で勃発した第一次大戦の最中、1918年(大正7年)に大阪・天王寺の外れで、とある遊廓が誕生した。碁盤目状に整備された街区と豪壮な木造建築、そして一帯を取り囲んだ高い壁と出入り口に設けられた大門は、江戸時代に繁栄した吉原遊廓へのオマージュ。だが、西洋文化と日本文化が融合した大正初期の産物ゆえに、ビリヤードやダンスホールなど「モダン」と評された施設を備えた妓楼もあった。

 その遊廓の名は、飛田(とびた)遊廓である。

 飛田遊廓は第二次大戦の際の大阪空襲で一部が消失した。その後も戦後の高度経済成長に伴う開発があり、遊廓時代の趣を遺す建物は今の「鯛よし百番」ぐらいしか遺っていない。だが、「にいちゃん、いい子おるよ」という遣り手婆の呼び込みと、赤絨毯の上がり框(かまち)に座った女性の嬌声が響く飛田新地の片隅に、往事の雰囲気を伝える廃屋が遺されている。「満すみ」である。

 この物件が建てられたのは1929(昭和4)年のこと。売春防止法が完全施行された1958(昭和33)年以降は飛田新地に特有の「料亭」として営業を続けたが、20年ほど前に料亭としての営業はやめ、以来、飛田新地の喧噪をよそにひっそりと佇んでいる。

 長年、風雨にさらされたことで建物の老朽化は進んでいる。板張りの床はところどころ腐っており、天井が崩落している部屋もある。屋根瓦の一部も剥がれており、年々、凶暴化する台風によっていつ崩壊してもおかしくない状況だ。

 実のところ、いつ、どのタイミングで満すみという屋号になったのかは分かっていない。もっとも、錆び付いたシャッターを開ければ、売春防止法の施行前、「飛田遊廓」と呼ばれた時の痕跡が至るところに遺されている。

 シャッターを開け、湿り気を含んだ廃墟特有の重い空気を吸い込むと、まず目に入るのは、赤絨毯とその先にある表階段である。そのまま奥に分け入ると、階段の手すりには松竹梅の透かし彫り。時間がきたら鳴らしたのだろうか、番台には呼び鈴のようなものがある。

 トタン板で入り口が囲まれているため、今は表から入ることはできないが、満すみにはタイルや漆喰で塗り固められたダンスホールのようなスペースがある。塵や埃がたまっているが、床は目の細かなタイル張り。流し台のついたバーカウンターのようなものも置かれている。

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