敦賀~今庄間の峠のピークに山中トンネルが荘厳な姿で現存する。左奥にはスイッチバックで使用された“行き止まりトンネル”も見える(写真:筆者撮影、以下、記載のない写真も)
日本各地で、さまざまな形で公開されている鉄道廃線トンネル。今回は明治時代の煉瓦などの造形が残りながらも、今なお県道や市道として活躍する旧国鉄北陸本線のトンネル群を紹介する。
(花田 欣也:トンネルツーリズムプランナー、総務省地域力創造アドバイザー)
福井県の敦賀市を経て南越前町に至る旧国鉄北陸本線のトンネル群(旧北陸線トンネル群)は、明治当時の煉瓦などのポータル(坑門)の造形がほぼ残る計13本ものトンネルが県道、市道に転用され、今なお“現役”で地域のインフラとして活用されている。
明治期の鉄道廃線トンネル群がエリア内に道路転用され、これほど保存状況が良く多数現存する例は、全国でここだけだろう。
トンネル建設の時代が重なる碓氷峠のトンネル群が“東の横綱”ならば、旧北陸線トンネル群は、その数だけでなく、国登録有形文化財にも指定された近代土木遺産としての価値から、“西の横綱”と呼ぶにふさわしい。
トンネル群の福井側の入口にふさわしい意匠の湯尾(ゆのお)トンネル(今庄)。鳥が両翼を広げたような「ウイング」(翼壁)と呼ばれる土木技法が見られる
明治ニッポンが注目!いち早く鉄道を開通させた理由
長浜~敦賀(金ヶ崎)間の鉄道が開通したのが1884(明治17)年。新橋~横浜間、京都~神戸間などに次いで、日本で5番目の鉄道の開通であった。
名古屋をはじめ、他の大都市よりもいち早くこの地に鉄道が建設された最大の理由は、関西から、天然の良港を有する敦賀まで鉄道で結ぶことで、東海道から日本海へのヒト・モノの輸送路を確保しようとした明治政府の国策にあった。
その14年後には、敦賀から山中峠を越えて福井へ鉄道が延伸され、のちの日本海縦断ルートに発展した。また、敦賀港からロシアのウラジオストクまで航路につながり、1912(明治45)年にはシベリア鉄道を経由してパリ、ロンドンなどヨーロッパの各都市へ至る「欧亜国際連絡列車」が誕生した。
第2次世界大戦中にリトアニアのカウナス領事代理・杉原千畝(ちうね)氏によりユダヤ難民に発給された「命のビザ」は映画にもなったが、彼らはこのルートを経て敦賀にたどり着いた。
今回紹介する旧北陸線トンネルを含む、福井・滋賀県境のエリアに豊富に残る鉄道遺産群は、日本遺産認定ストーリー「海を越えた鉄道~世界へつながる鉄路のキセキ~」の構成文化財でもある。
