再び北陸本線の線路に合流し、敦賀の市街地に入る。時間が許せば、ほかの鉄道遺跡群も見てみたい。
欧亜国際連絡列車などの資料展示が豊富な敦賀鉄道資料館(旧敦賀港駅舎)、1882(明治15)年に煉瓦で造られた旧敦賀港駅ランプ小屋、さらには現存はごくわずかなキハ28形気動車を併設し、館内に敦賀の街並みを再現した鉄道ジオラマのある敦賀赤レンガ倉庫など、港エリア周辺に鉄道遺産群が実に豊富に集積しており、一見の価値は十分にある。
これらのスポットは、敦賀駅などに設置されている「つるがシェアサイクル」で散策することも可能だ。将来的には、一部の線路が残る旧敦賀港線の跡地も含め、敦賀市がこのエリアに鉄道遺産を活用したまちづくりを計画しており、散策できる日が待ち遠しい。
旧敦賀港駅舎の敦賀鉄道資料館。欧亜国際連絡列車の時刻表や切符のほか、旧北陸線トンネル群を走っていた列車などの映像コーナーもある
敦賀赤レンガ倉庫脇に静態保存されているキハ28形気動車。地元・小浜線をはじめ全国で活躍した名車で、「パノラミックウインドウ」と呼ばれる前面窓が鉄道ファンに人気
敦賀から再び峠越えの難所に挑む
旧線跡は、敦賀から今庄まで再び山越えになり、トンネルの連続する旧北陸線トンネル群のメイン区間となる。“山中越え”や“杉津(すいづ)越え”と呼ばれ、柳ケ瀬トンネルと同様に25/1000‰の急勾配が続く。
この峠を境に北(福井側)が「嶺北(れいほく)」、南(敦賀側)が「嶺南(れいなん)」と呼ばれ、テレビの天気予報などでも地域区分されているが、何度かこの地を訪問すると気候や風土の違いも感じる。
敦賀市の市街地から県道476号線に沿って旧線跡が続く。
まず、市街地の外れの道路左手に総煉瓦造りの樫曲トンネル(87m)が現れる。車のスピードが速いと通り過ぎてしまうので注意したい。内部にカンテラ風の照明があり(センサーで点灯)、SNS映えするスポットでもある。
ここからの一連のトンネル群は1893(明治26)年~1896(明治29)年に完成し、先ほどの小刀根トンネル(1881年)と比べると煉瓦がぎっしりと積層され、わずか10年余りで土木技術が進歩したことも感じる。
県道をしばらく走ると、北陸自動車道の手前で田圃が広がり、幅の広い畦道のように見えるのが葉原築堤だ。かつてSLの撮影地として知られた場所で、旧線当時は築堤の先に長編成の列車も交換可能なスイッチバックの信号場が設けられていた。
急勾配が続く敦賀~今庄間には杉津と大桐(おおぎり)の2駅しかなく、幹線の貨物や旅客列車の交換を頻繁に行う必要があったことから、旧線当時、計4か所のスイッチバックが設けられていた(他に、深山=みやま、新保、山中)。
また、長い勾配を克服するため、敦賀、今庄の両駅ではSLの“補機”が連結され、峠越えに挑んでいた。その連結に要する停車時間を活用して、今庄駅に「立ち食いそば」が登場し、人気を呼んだ。今庄エリアには今も「今庄そば」を提供する店舗があり、素朴な味わいを楽しめる。
樫曲トンネル
旧北陸線トンネル群の敦賀口最初のトンネルは見事な総煉瓦造り。内部にはセンサーによるカンテラも再現されている
廃線跡である葉原築堤の上を通り、単線の直線線路跡を想起させる一本道の先に、葉原トンネルの入口と時間待ちの信号があり、979mの長いトンネルに入る。このトンネルも狭いが、内部の側壁の石積み、アーチ部分の煉瓦がほぼ当時のまま残っている。
トンネルに使用する「切石」と呼ばれる一種の化粧石は、なかなかの高額であったという。この点、敦賀周辺は良質な石の産地で、トンネル建設には地の利があった。
また、煉瓦についてはその多くを名古屋など遠方から運び、質の高い煉瓦が使用されたが、山中トンネル建設時に大雨による大規模な自然災害に見舞われ、陸路の運搬ルートが断たれ、神戸から海路で瀬戸内海、下関を回り、日本海を経て敦賀まで運び、トンネル近くの崖下から人力で運搬したという。推定だが、総計で数千万個に及ぶ煉瓦を労苦を重ねて運搬したと思われる。
葉原築堤は大きなカーブを描く単線の線形で、築堤の右寄りにスイッチバックが設けられていた(写真:長浜市・敦賀市・南越前町観光連携協議会)
切石ポータルの葉原トンネル手前には時間待ち表示付きの信号と高さ制限のバーがある
内部は側壁が切石積み、アーチ部分は煉瓦。厳選されたであろう見事な石が1km近く続き壮観だ。一定間隔ごとに設けられた待避所の煉瓦も丁寧に組まれている