トンネル群の「扁額」が多数展示される長浜鉄道スクエア(旧長浜駅舎)
旧北陸線トンネル群の廃線跡を長浜からたどってみる。
1882(明治15)年に完成した当時の長浜駅舎が現在、長浜鉄道スクエアとして公開されており、探訪の起点にふさわしい。屋外には、旧北陸線トンネル群をはじめとしたトンネルのポータル(坑門、入口)上部に掲げられていた扁額(へんがく=プレート)の実物がずらりと並ぶ。
当時の日本を代表する政治家などが揮毫(きごう)した巨大な石造りの扁額に、それぞれ解説板が設けられている。
例えば、柳ケ瀬トンネル(東口)の「萬世永頼(ばんせえいらい)」の揮毫は日本初の総理大臣であった伊藤博文によるもので、当時の日本において、この地の鉄道開通の持つ意義と、期待の大きさを窺い知ることができる。
当時、大阪・京都~長浜間は、米原経由の鉄道がまだなく、大津からの琵琶湖の舟運に頼っていた。長浜駅での連絡船と鉄道の乗り継ぎの接点は機能的に設計され、物資輸送の利便も図っていたことが館内のジオラマ展示から見て取れる。
日本最古の旧長浜駅舎は長浜鉄道スクエアとして公開されている(写真:長浜市・敦賀市・南越前町観光連携協議会)
屋外には旧北陸線トンネル群などの扁額(トンネル上部に掲げられた石造りのプレート)が多数展示
勾配限界の“柳ケ瀬越え”の労苦と峠の難所を克服した工夫
長浜から敦賀への旧線跡は、国道365号線を北上する。廃線跡の主なルート上に二次交通がないため、旧北陸線トンネル群の探訪は車利用となる。
木ノ本からはいったん、現在の北陸本線から離れ、プラットフォーム跡の残る中ノ郷駅跡を過ぎ、県境の山あいを進むと、柳ケ瀬トンネル手前に設けられた対向車との時間待ちのための“信号”に至る。
明治の単線トンネルを拡幅せずに転用しているため、トンネル内での車の行き違いができず、このような“信号”と高さ制限の道路標示(バー)が複数のトンネル前に設けられている。
1352mの柳ケ瀬トンネルに入ると、その狭さに圧迫感を覚える。4年に及ぶ難工事の末に完成した長大トンネルは、25/1000‰(1kmで25m上る、もしくは下る)の急勾配が続くが、これは当時のSLにとっての勾配限界であり、さらにこの地は名だたる豪雪地域で、開通後にはSLの空転事故も発生した。
その解決策として、トンネルの勾配の頂点に近い長浜側出入口の上部に巨大な木製の建屋のような“排煙装置”と“隧道幕”が後年設けられ、列車がトンネルに侵入すると幕を下ろして内部の気圧を一定にすることで、SLの乗務員に煤煙がまとわりつくのを防いだという。
今ではアナログな方法に思えるが、乗務員のみならず乗客の人命を守るために編み出された必死の知恵だった。
明治の開通以来長らく日本最長だった滋賀・福井県境の柳ケ瀬トンネル(1352m)。鉄道創成期のトンネルで口径が小さい。トンネル入口手前左に「萬世永頼」の扁額(伊藤博文による揮毫)が見える
歩いて通り抜けられる現存日本最古の鉄道トンネル
柳ケ瀬トンネルを抜けると、福井県に入りほどなく国道の脇に小刀根(ことね)トンネルがあり、トンネル内を散策できるよう周辺が整地されている。56mの短いトンネルだが、1881(明治14)年に造られ、内部公開されている鉄道トンネルとしては日本最古で、約6mある高さは後のD51形蒸気機関車の車高の基準にもなった。
切石(きりいし)を積み重ねたポータル(坑門、入口)や脇の土留(どどめ)擁壁は長い時を経て苔むしており、内部のイギリス積みの煉瓦にはSLのススが付着していて、140年余りの長い歴史を感じさせる。
また、ポータルの要石(アーチ環の最上部に位置する支点の役割も持つ石)には「明治14年」と年号が刻まれており、全国でも極めて稀なものだ。
小刀根トンネル
小刀根トンネルは現存する日本最古の鉄道トンネル。左脇の苔むした土留擁壁も歴史を感じさせ、アーチ環の要石に彫られた年号標記は全国でも稀少だ