将軍としての能力に不安がある家重を支えた側近たち

 よほど心配だったのか、吉宗は62歳まで将軍から退かなかった。そのため、家重は34歳でようやく将軍に就任する。

 だが、家重は就任早々、弟の宗武を将軍に担ごうとした老中の松平乗邑(のりさと)を罷免。そればかりか、弟の宗武に登城停止の命を下した。その一方で、自分をカバーしてくれる側近たちを見極めて、政務を任せていく。

 家重が信頼した側近の一人が、家重の小姓を長く務めた大岡忠光だ。名町奉行として知られる大岡忠相(おおおか ただすけ)とは遠縁にあたる。

 忠光は16歳のときから、3歳年下にあたる家重の身辺で雑用を行う小姓(こしょう)を務めていた。ちょうど吉宗が8代将軍に就任した年であり、それ以来ずっと家重をそばで支え続けた。「コミュニケーションに難があった家重の意図をくみ取れたのは、忠光だけだった」とさえ言われている。

埼玉県岩槻市の竜門寺が立てた墓碑に描かれた徳川家重と大岡忠光のイラスト埼玉県岩槻市の竜門寺が立てた墓碑に描かれた徳川家重と大岡忠光のイラスト(共同通信社)

 延享2(1745)年に家重が将軍となると、忠光は当然のように御側御用取次に任じられている。さらに宝暦6(1756)年には、側用人に就任されて5000石を加増され、合計2万石を得て武蔵国の岩槻藩主となった。

 忠光以外では、以前に大老を務めた酒井忠清の子孫、酒井忠恭(ただずみ)が本丸老中となり、家重を支えた。あわせて、老齢の老中が亡くなっていき、乗邑が罷免されたことで、家重の時代には、老中はみな30代となった。

 将軍として能力にやや不安のある家重を、家柄のしっかりとした忠恭を首座としながら、将軍と同じ年代の老中で固めたことになる。

 そんな家重が取り立てた側近は忠光だけではない。自身が将軍になったときに本丸小姓に任命し、その後は御用取次まで出世させた人物がいた。のちに老中として商業重視の政治を展開する田沼意次である。