養老山地 撮影/倉本 一宏

(歴史学者・倉本 一宏)

日本の正史である六国史に載せられた個人の伝記「薨卒伝(こうそつでん)」。この連載では藤原氏などの有名貴族からあまり知られていない人物まで、興味深い人物に関する薨卒伝を取り上げ、平安京に生きた面白い人々の実像を紹介します。今回は『日本三代実録』より、春澄善縄です。

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伊勢国員弁郡の地方豪族

 次は立派な学者について述べよう。『日本三代実録』巻十七貞観十二年(八七〇)二月十九日辛丑条は、春澄善縄(はるずみのよしただ)の薨伝を載せている。

参議従三位春澄朝臣善縄が薨去した。善縄は、字は名達(めいたつ)。左京の人である。本姓は猪名部(いなべ)造。伊勢国員弁郡の人である。官途に就いた後、京に移った。祖父の財麻呂(たからまろ)は員弁郡少領、父豊雄(とよお)は周防大目であった。

善縄は幼くして明慧で、礼儀作法は常人と異なっていた。財麻呂が見ると珍しい童として、意を尽くして養育した。孫の為に財産を傾け、曾て惜しむことはなかった。善縄は齢弱冠にして大学に入って師に仕え、多くの書籍を読み耽った。未だかつて手を休めず、博く渉り多く通じ、詩文を作ることに妙にして、およそ閲覧したところは多く口に誦じた。人を兼ねる敏が有り、時の学を好む者で及ぶ者はいなかった。天長(てんちょう)の初年、奉試に及第して、秀才に次ぐ俊士に補された。天長四年、常陸少目となり、秩俸を研精の資に充てた。天長五年、姓春澄宿禰を賜った。兄弟姉妹五人は、同じくこれに預かった。後に宿禰を改めて朝臣となった。俊士の号を停め、文章得業生に補された。天長七年の対策では、詞義が甚だ高く、式部省は評して丙第とした。

この年の春、内記が欠けた。帝(淳和[じゅんな]天皇)は元から士を重んじた。虚しくこの職を欠いて、善縄を待った。夏五月に至り、善縄を櫂第し、六月、遂に少内記に補して、文路の栄とした。次いで大内記に転任された。天長八年、播磨少目となった。天長九年、従五位下に叙された。天長十年、東宮学士に拝任された。大内記は元のとおりであった。承和(じょうわ)元年、摂津権介となった。承和三年、但馬介に遷任された。承和九年春、従五位上に加叙された。

秋七月、嵯峨(さが)太上天皇が崩じ、皇太子(恒貞[つねさだ]親王)は廃された。善縄、東宮学士であったので、周防権守に左遷された。承和十年、文章博士に遷任された。大学で范曄(はんよう)の『後漢書(ごかんじょ)』を講じた。解釈は流れるように通じ、留まり障ることは無く、諸生で疑いを質す者は、皆、重なった疑問は解消した。嘉祥(かしょう)元年、正五位下に進んだ。嘉祥三年、従四位下を授けられた。仁寿(にんじゅ)二年、遷任して但馬守となった。仁寿四年、刑部大輔に遷任された。斉衡(さいこう)四年正月、伊予守となった。同年十二月、右京大夫となった。天安(てんあん)二年、従四位上を授けられた。貞観(じょうがん)二年、参議に拝任された。貞観三年、式部大輔となった。貞観四年、加叙して正四位下を授けられた。貞観五年、播磨権守を兼ね、貞観六年、近江守に遷任された。

これより先、詔を承って、『続日本後紀(しょくにほんこうき)』二十巻を撰修した。十一年に及んで、筆削はすべて終わり、朝廷に詣でてこれを献上し、太政官に収めた。この年の春の初め、病を発してますます激しくなった。二月七日、従三位を授けられた。東京(左京)の里第で薨去した。時に行年は七十四歳。

善縄は、性は周慎謹朴で、自己の長じているところを人に加えなかった。昔、文章博士であった時、諸博士は皆、名家であって、互いに軽んじ合い、短所長所を口にした。また、弟子も門を異にして、互いに争うことが有った。善縄は門徒を礼を言って帰らせ、謙遜して自ら修めた。ついに謗議の及ぶところとならなかった。人となりは陰陽を信じ、拘って忌むところが多く、物怪が有る毎に、門を閉ざし、斎禁して人を通らせなかった。それで一月の中で、門扉は十回閇ざされた。また、その家宅は垣屋を治めず、口に死を言うことは稀で、弔聞は遂に絶えた。公位に登るに及んで、斎忌はやや省いた。年齢は頽暮となっても、聡明さはいよいよ倍した。文章の美は、晩年、麗しさを加えた。貞観年中、試験の結果を追い改め、進んで乙第となった。ただ子姪の他は、家に来客は稀で、もてなす宴席を催さず、風月は長くのどかであった。子がいて、男女四人。具瞻(ともみ)と魚水(うおみず)は共に爵位が五位に至った。ところが家風を継ぐ者はいなかった。長女洽子(こうし)は正四位下典侍となった。

 猪名部氏は伊勢国員弁郡の地方豪族で、善縄の祖父の代までは郡司を務めていた。おそらく父の世代に官途を求めて京に上ったのであろう。なお、員弁郡は伊勢国最北端の郡で、現在のいなべ市と桑名市の一部にあたる。養老山地と鈴鹿山脈に挟まれた員弁川の沿岸である。桑名駅から出ている三岐鉄道北勢線の沿線である。

 善縄は延暦十六年(七九七)の生まれ。幼い頃から聡明であり、その才能を見出した祖父は善縄を大切に育てて、教育のために家の財産を惜しまずにつぎ込んだという。しかし、あのような田舎で、どのように学業に励んだのであろうか。