良家の子弟しか採用されなかった俊士に

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 弘仁七年(八一六)に二十歳で大学寮に入って文章生となった。弘仁十一年(八二〇)に文章生は「良家の子弟」のみに限定する規定が定められ、身分の低い家出身の文章生は対策という試験を受ける権利を剥奪された。しかし、春澄はそれでも学業を続け、その様子は誰も及ばなかったという。我々は誰しも、外的な要因で学問に行き詰まると、そこで学問を諦めたり、自暴自棄になりがちであるが、さすがに春澄は違ったのである。

 天長初年に奉試を受けることが許され、善縄は及第、本来は良家の子弟しか採用されなかった俊士となった。天長四年(八二七)から地方官を歴任しているが、これは任地に赴任せずに俸禄を学資に充てたものである。

 天長五年(八二八)に文章得業生に転じ、兄弟姉妹と共に春澄宿禰に改姓している。天長七年(八三〇)に三十四歳で対策に及第。淳和天皇の意向により、善縄の及第を待って、善縄は少内記に任命された。天長九年(八三二)には三十六歳で従五位下に叙爵され、貴族の仲間入りをした。地方豪族出身者としては、異例の出世である。天長十年(八三三)には東宮恒貞親王の東宮学士に任じられた。

 承和九年(八四二)に嵯峨太上天皇の崩御をきっかけに承和の変が発生し、恒貞親王が皇太子を廃された。東宮学士であった善縄もこれに連座して周防権守に左遷されたが、早くも翌承和十年(八四三)に罪を赦され、平安京に召還されて文章博士に任じられた。四十七歳のことである。その後、承和の変の黒幕ともされる仁明(にんみょう)天皇と藤原良房(よしふさ)の信任を受けるようになった。不遇な政治状況をものともせず、かえって敵対者から信任されるとは、よほどの学才だったのであろう。

 その後も昇進を続け、貞観二年(八六〇)には六十四歳でついに参議に任じられ、公卿となった。貞観十二年(八七〇)には位階も従三位に上った。斉衡二年(八五五)からは文徳(もんとく)天皇の詔により、藤原良房・伴善男(よしお)らとともに『続日本後紀』の編輯を始め、(途中で善男らが脱落したため)貞観十二年に良房と二人で完成させて上奏した。

 この間、学閥間における対立が激しかったが(主に菅原清公[きよきみ]・是善[これよし]父子と他氏との抗争)、善縄は恬淡とした性格で、門閥を構えることもなく、抗争の埒外に身を置いていたという。この点も、数々の抗争に巻き込まれてきた私とも共通する立場である。

 また、陰陽を信じる性格で、様々な禁忌にこだわって忌むことが多く、物怪が有る度に門を閉ざして人を通らせなかった。一月の内で、門扉は十回閇ざされたという。その作品には列仙伝・神仙伝などの道教的影響がみられるとのことである(『国史大辞典』による。川口久雄氏執筆)。

 象徴的な事例が、承和十一年(八四四)、物怪の出現について、亡者の祟りは関係ないとする嵯峨天皇の遺戒と、亡者の祟りとする卜筮の結果が矛盾して対応に苦慮した際、良房の指示を受けて、善縄と菅原是善(道真[みちざね]の父)が中国の故事を調査し、卜筮の告げる内容は信じるべきであり、遺戒を改めるべきであると報告したことであろう。朝廷はこれに従うことになったが(倉本一宏『平安貴族の心得』)、良房はこの結果を見越して善縄に命じたのであろう。

 年老いても聡明さはいよいよ増し、文章はますます美しくなった。これがもっとも羨ましい点であって、年齢とともに衰えるばかりの私としては、なんともあやかりたい限りである。

 また、親戚を除いては自邸に客人が訪れることも希で、酒宴が開かれることもなく家はのどかな様子であったという。子女は男女四人いたが、具瞻と魚水は共に五位に上ったものの、魚水が駿河守として見えるのみで、具瞻の官職は不明。学問に励んで家風を継ぐ子はいなかったという。一方、長女洽子は内侍司で掌侍や典侍となり、従三位に上った。地元では員弁氏が郡司を務めたことが鎌倉時代まで確認できるが、善縄との関係は定かではない。

 

『平安貴族列伝』倉本一宏・著 日本ビジネスプレス(SYNCHRONOUS BOOKS)