「若貴」の父親・師匠としても知られる貴ノ花

 2024年11月、NHKの名解説で親しまれた第52代横綱の北の富士勝昭さんが82歳で亡くなった。現役時代は美男な上に取り口が派手だったこともあり、実に華のある力士だった。プロ相撲が何百年と人気を維持してきた背景には、北の富士のようなイケメン力士たちの存在が欠かせなかった。3回に分けて、そんなイケメン力士を紹介する本シリーズ、今回は「昭和中期〜後期」に活躍した力士を紹介する。

【ほかの回を読む】
①イケメン力士列伝「幕末〜昭和初期」を読む
③イケメン力士列伝「平成〜令和」を読む

(長山 聡:大相撲ジャーナル元編集長)

身代わり入門で横綱まで昇進した吉葉山

輝昇勝彦(関脇)

 人気俳優だった片岡千恵蔵にそっくりと騒がれたほどの美男を誇った。

 輝昇は大正11年(1922)1月26日に北海道留萌市に生まれた。子供の頃から相撲大会での怪力ぶりが話題となり、15歳で角界入りを決意、昭和12年(1937)5月場所に初土俵を踏んだ。

 1日にテッポウを1000回、多い時には3000回という猛烈な鍛錬で昭和17年1月場所に新入幕すると、4場所後に小結、5場所後には関脇と順調に番付を上げた。

 177cm、104kg。相撲ぶりは闘志むき出しの突っ張りオンリーで、土俵いっぱい暴れまわる小気味のよさは、のちの関脇寺尾が似る。腰が重く前に落ちないと言われていた横綱照国をはたき込みと突き落としで、3度も撃破している。

 甘いマスクもあり大変な人気を呼び吉葉山、三根山とともに「高島部屋三羽ガラス」と称された。しかし糖尿病に苦しんだ上、アキレス腱切断のため急激に力が衰えてしまった。

輝昇勝彦

 現役時代から弁舌が立ち、映画界から何度も誘われたという。「彼が映画へ入っていたら、押し出しは立派だし、千恵蔵よりも一つスケールの大きい、得難い時代劇俳優になっていたかもしれない」(鈴木治彦「美男力士古今物語」)

 力士には珍しく、俳優転向を決意しなかったことを惜しむ声さえあった。

吉葉山潤之輔(横綱)

 吉葉山は大正9年(1920)4月3日に北海道石狩市に生まれた。実家は網元だったが、大正末期に漁獲量が激減し倒産。高等小学校を卒業すると、帯広の会社に工員として採用されるが、学問を志して昭和13年(1938)に上京。その時、汽車の座席の前に座っていた力士志願の青年が、途中で逃げ出してしまった。

 上野駅に着いた途端、大きな体を間違えられ高島部屋に連れ込まれる。こうして身代わり入門という形で相撲界入りを決意するという、ユニークなエピソードを持つ。

吉葉山潤之輔

 昭和13年5月場所に初土俵を踏んだが、同年の暮れに盲腸炎をこじらせ、吉葉庄作博士の執刀で九死に一生を得た。その恩義に報いるため吉葉山と改めた。

 昭和17年幕下筆頭で優勝。十両入りを約束されながら応召され、中国大陸の戦線に従軍した。左大太腿部に貫通銃創を受けるなどで生死の境をさまよう体験もしたが、21年6月に復員。体重が30kgほど減り、60kg台になっていたが、“胃袋吉葉”の異名を取るほど食べ、わずか半年で元の体重に戻した。

 翌昭和22年6月場所に5年ぶりに土俵に戻り、十両4枚目に付け出された。トントン拍子に出世して、26年1月場所後に大関昇進。29年1月場所に全勝で初優勝を果たすと、場所後、33歳9か月で横綱に昇進した。

 180cm、145kg。腕力が強く、左四つからの寄り、投げ、ひねりなどは威力があった。戦争で受けた古傷などもあり、やや下半身に欠陥があったため、取りこぼしも多かった。

吉葉山潤之輔

「吉葉山関は美丈夫です。おそらく古今の大力士の中、これほど押し出しの立派な関取がまたお二人とあったでしょうか」(和藤鶴子「関取衆美しいお花見立帖」)

 均整の取れた堂々たる体軀に、まれに見る美男。戦争の被害を最も受け、波乱万丈の力士人生を歩んだこともあり、初優勝時の頃の人気は、戦後ナンバーワンといってもいいほどの凄まじさだった。

 昭和52年11月26日、腎不全のため57歳で死去した。