大相撲秋場所は、大関貴景勝が東前頭15枚目の熱海富士との優勝決定戦を制し、4回目の優勝を決めた。照ノ富士がけがで休場となり横綱不在の場所となる中、大関の意地を見せた格好だ。今回は、日本の国技とされる相撲はどのように始まり、現在の形になっていったのか。その歴史を解説する。
(長山 聡:大相撲ジャーナル編集長)
「大和の国で最強」と「出雲一の強豪」が対決
四つに組んでの力比べは、人間の本能といってもよく、古来世界各国で相撲によく似たスポーツが行われていた。
相撲の始まりとして最も知られているのは、日本書紀に記載されている野見宿禰(のみのすくね)と当麻蹴速(たいまのけはや)のバトルだ。垂仁天皇7年に当時、大和の国で最強を誇る当麻蹴速が、出雲一の強豪・野見宿禰を呼び寄せ、対決した。
この最強決定戦は、宿禰が蹴速のわき腹をけり、あばら骨を踏み折って殺す壮絶な結末となっている。現在の相撲とは異なるルールなしの死闘と言ってもいいが、勝者である宿禰は、現在でも相撲の祖神として祭られている。もちろんこれは歴史上の事実として確認できるものではない。
相撲は古代からスポーツとしてだけではなく、五穀豊穣の祈願として継承されてきた歴史がある。奈良時代から平安時代には、相撲が祭典や権力者の祝い日などの儀式に加えられていくようになった。
聖武天皇が開いた相撲節会が年中行事に
聖武天皇は天平6(734)年7月7日に、諸国の力士を集めて盛大な相撲節会(すまいのせちえ)を開いた。節会とは元旦、端午、七夕、重陽など、季節の変わり目の行事を行う日だ。相撲節会は豊作を占う国占いとして宮中の年中行事に制度化され、その後約300年余りも続いた。
この相撲イベントには各地から召集された屈強な相撲人(力士)が左右に分かれて、約20番取り組んだ。まだ土俵は存在しなかったが、こぶし突き、殴る、蹴るなどが禁止され、論(物言い)や練合(ねりあい=仕切り直し)の制度が生まれるなど、今に連なる相撲のルールの原型を見出すことができる。地位も確立され最もすぐれた力士は「最手(ほて)」、次の実力者は「脇」と呼ばれた。