(長山 聡:大相撲ジャーナル編集長)
「横綱・大関が2人だけ」は回避したものの
逸ノ城の初優勝で幕を閉じた名古屋場所は、カド番の正代と御嶽海が6日目終了時点でともに2勝4敗。もし両大関が負け越せば、横綱・大関の人数が、横綱が地位化した明治42(1909)年以降、史上最も少ない2人になる大ピンチだった。
幸い正代はその後調子を取り戻して勝ち越し、御嶽海はコロナ関係で7日目から休場したため、再び秋場所にカド番で臨むことになった。
最悪の事態は避けられたものの、もし正代、御嶽海の両大関が名古屋場所で負け越し、大関が貴景勝の1人になった場合、秋場所の番付はどうなっていたのだろうか。おそらく東の照ノ富士は大関を兼ねる「横綱大関」と番付に記載され、貴景勝は西大関にランク付けされていただろう。なぜなら大関は番付から欠いてはならないという不文律があるからだ。
とはいえ、「横綱大関」照ノ富士と、一見すると地位がやや下がったような措置が取られることに、疑問を感じられる方も多いだろう。そこには番付の伝統や横綱、大関の変遷を理解する必要がある。
相撲界における最高実力者は長い間大関だった。大関は平安時代の相撲節会の最高位・最手(ほて、最もすぐれた取手)に当たる。
大関の「関」とは「関所」、つまり物事を差し止めるもののことを指す。室町時代には相撲の相手を関所に見立て、これをことごとく破った時、関を攻略したということで「関を取る」と言った。これが現在の関取の語源である。その中でも特に抜きん出た実力の持ち主に「関」に「大」をつけ、最手の代わりとなる最高位を表わす大関という言葉が誕生した。
前回の記事(「ルール逸脱が放置されている大相撲の番付、なぜ張り出し大関がいないのか」https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/70820)で述べた通り、江戸の番付の役力士は、大関、関脇、小結の三役が東西に1人で2人ずつの計6人という人数がきっちりと守られていた。明治に入りスポーツの概念が人々の間に浸透すると、3人目、4人目の大関が誕生するようになっていった。逆に大関の人数が減るようなことは決してなく、東西のどちらかの大関が不在になるような事態は避けられていた。