番付最高位である「大関」の誕生

 やがて朝廷の力が衰え、武士の時代になると、相撲は心身の鍛錬や戦闘に役立つ武術として、弓馬とともに武士の必須課目となった。室町時代には、小さい規模の相撲興行も行われ、相撲集団同士の対抗戦に、相手方をことごとく破った力士に対し「関を取った」というようになった。これが関取の語源であり、現在は十両以上の力士を指す言葉だ。

「関」とは相手力士を「関所」に見立て、物事を差し止めるものを表した。江戸時代に番付というランキング表が作られると、「関」に「大」をつけ、最手の代わりとなる最高位を表す大関が誕生した。その後、節会相撲の脇から大関の次の地位である関脇という言葉も生まれた。

 江戸時代に入り、戦乱が収まると失業した浪人を中心に職業相撲である勧進相撲がますます盛んになっていった。勧進というのは神社、仏閣の建立、修理などの資金を集めるために行われるチャリティーが本来の意味だったが、江戸時代には自分たちの生活のための営利興行になっていった。ただし寺社奉行の許可が必要だったため、勧進の名を使い続けた。

享保年間に土俵は現在とほぼ同じ形に

 江戸時代初期には人方屋といって、相撲を取るスペースを大きくとり、対抗する相撲集団が東西にわかれて円陣の人垣を作っていた。この人垣に相手を押し込んで倒し、勝つ場合などもあったが、まだ戦国の気質が抜けていない頃だったため、そういう勝負はけんか口論の火種となることが多かった。

 中には血を見るような修羅場さえあったため、幕府はしばしば相撲禁止令を出して取り締まった。その打開策として相撲集団が考案したのが明確なルールを作ることだった。相撲作法や基本技を制定し、相撲を取る場所に境界線を設けた。この境界線が、享保年間(1716~1735)ごろに現在の土俵とほぼ近い形になり、土俵の外に相手を出すことも勝ちになるルールも作られた。

 番付は、初期には大きな板に書かれた板番付で、興行場の前や、人通りの多い盛り場に宣伝用として掲げられた。次第に興行の規模が大きくなると広く告知する必要が生じ、土俵成立同様に享保あたりから木版刷りの印刷物となった。