1898年の九龍城砦

(みかめ ゆきよみ:ライター・漫画家)

新界租借条約ののちの九龍城砦

 イギリスの勢いは止まらなかった。1898年、清はイギリスに新界地区と香港島嶼部の230以上の島々を99年間の期限付きで租借した。表向きの理由は「香港の適切な防衛と保護のため」である。新界は香港島、九龍半島以外の全域で、香港島と九龍地区を合わせた面積のほぼ10倍もの広さを持つ。この条約には日本も間接的に関わっていた。1894年に勃発した日清戦争に敗北した清は国際的地位が低下していた。そこにつけ込んだ形での租借であった。

 九龍城砦も租借地の範囲に含まれていたが、特別条項により清の官員の常駐が許され、イギリス側の香港の治安維持を妨害しない限り清側の管轄権を行使することが認められた。

 1898年以降、香港は緩やかにイギリスへの接収が進んでいき、九龍城砦の兵員についても整理が進められた。九龍巡検が所轄していた200余の村落はもはやイギリスの租界になっていたので管轄の必要がなくなっていた。多くの兵を置く必要がなくなってしまったのだ。

 もちろん接収は簡単にはいかず、一部の地元住民から反発が起こった。広東当局は九龍城砦に兵を派遣しこれを援護したが、イギリス側はこの事態を「香港の治安維持を妨害した」とみなし、軍隊を派遣して城内を制圧した。イギリスとしてはこのまま九龍城砦も接したいところであるがそうはいかない。1900年に行われた李鴻章(りこうしょう※)とブレイク香港総督との会談では、李鴻章が九龍城砦について言及し、九龍城砦が持つ「特別条項」を引き合いに出したという。

 イギリスは強く出ることができず、九龍城砦の接収に至らなかったのである。結果的にこの一件が長く続く「三不菅」を招くきっかけになっていった。この後、イギリス政府は再三九龍地区の浄化を試みるが、住民たちの反発にあい、すべて失敗するのである。

※ 李鴻章 清の政治家。日清戦争の際には下関条約の調印を行なった。