日本軍の侵攻、香港陥落

城内に残る清代の建物 ミルヴァッシュ, CC BY-SA 3.0, via Wikimedia Commons

 1911年の辛亥革命により清が滅亡、1924年には国民革命が起こり、中国国内は動乱を迎えた。この動乱から逃れ香港にやってきた人は年々増加し、九龍城砦の人口も増していった。1933年、植民地政府は九龍城砦の開発を進めるため立ち退きを求めたが、住民たちはことごとくこれを無視し、また、中華民国側からも抗議が及んだことから失敗に終わった。

 一方で日本は中国への侵略を開始した。1937年に侵攻は始まり、日本軍は瞬く間に中国の主要都市を占領した。1941年12月8日、日本は世界に向けて宣戦布告を発し、開戦当日の午前8時には日本軍の飛行機38機が啓徳空港を爆撃。陸では新界への侵入が始まり、9日午後には九龍城門陣地の北に到着した。11日の午後にはイギリス側の防禦ラインが崩れ、九龍半島は日本軍の手に落ちた。開戦からわずか5日にして新界と九龍は全て日本軍の手に落ちたのである。

 勢いづいた日本軍は香港島へと上陸し、イギリス軍と死闘を繰り広げた。25日、イギリス軍マーク・ヤング総督は酒井隆中将に無条件降伏し、香港は日本軍が占領するに至った。世にいう「ブラック・クリスマス」である。以降3年8カ月の間、九龍城砦含む香港は日本軍の管轄下に置かれることとなった。

日本軍統治の38カ

 日本軍は香港全体をイギリスの植民地としての色から日本の色へと変えていき、地名や道路の名を日本名にしたり、暦を日本の元号へとしていった。香港全体としては早い時期から人口を減らす政策を取っており、1942年には強制送還の布告が出されている。160万余人もいた人口は占領が終わる頃には60万人に減少している。強制退去のせいだけではない。泣く子も黙る日本軍警による厳しい拷問や処刑によって命を落とす者も多かった。

 

 日本軍にとって九龍城砦の「三不菅」は関係なく、香港の一部として等しく植民地として扱った。そして城砦としての意味をなさなくなった九龍城砦の城壁は取り壊され、啓徳空港を軍用空港にするための建材となった。

 日本軍の統治は長くは続かず、1945年8月14日、日本政府はポツダム宣言を受諾し香港から撤退した。香港は再びイギリスの占領下に置かれ、城壁が取り払われた九龍城砦には多くの移民が住み着くようになった。1930年代は約500人だった人口は1947年には約2000人にまで膨れ上がったという。ここからは戦後の九龍城砦史となっていくわけだが、相変わらず九龍城砦は「三不菅」として扱われ、時にはそれが原因で大きなデモにも発展していった。

参考文献
九龍城寨の歴史 魯金著 倉田明子訳 みすず書房
香港の歴史 ジョン・M・キャロル著 倉田明子、倉田徹訳 明石書店
最期の九龍城砦 中村晋太郎 新風舎
大図解九龍城 九龍城探検隊 岩波書店
日本占領下の香港 関 礼雄著 林 道生訳 御茶の水書房
香港追憶 長野重一 蒼穹舎