
(みかめ ゆきよみ:ライター・漫画家)
戦後の「九龍城事件」
戦後間もない1947年、香港政庁は九龍城砦内に新たに建設された木造建築を取り壊すように通告した。しかしこれに中国政府は異議を唱えた。日本軍統治時代に城砦が取り払われているとはいえ、「特別条項」は生きていると主張したわけだ。
香港政庁は強引に策を進め、木造建築を70軒ほど撤去したが、これに住民たちは反発し、抗議運動へと発展していった。この事件が広まると中国全域でイギリスに対する抗議デモが巻き起こった。香港政庁は争いを回避するため、九龍城砦には触れず、九龍城砦以外の地域の開発を進めていった。こうして「先進的な香港」ができあがっていったわけだが、この流れに乗れない貧困層が九龍城砦に逃げ込み、我々がイメージする「九龍城砦」を作り上げていくのである。
アヘン窟と化した九龍城砦
1949年、中華人民共和国が成立すると、中国から香港へと逃れる難民の数が大幅に増加した。1950年の末には人口が200万人にも膨れ上がっていた。また、1966年から「文化大革命」が起こり、多くの難民が押し寄せた。九龍城砦にも多くの難民が流れ込み、違法建築がそこかしこにできあがった。香港政庁が九龍城砦の取締りに失敗して以降、城砦内はアヘンや賭博や売春が横行する危険な地域になっていた。この混乱に乗じて黒社会(いわゆるヤクザ)も押し寄せて汚職官員と裏取引をしながらアヘンや賭博でボロ儲けするようになっていったという。
九龍城砦は危険なところであるという印象は、この50年代から60年代頃の印象によるものである。ストリップショーを見せる小屋が作られ客寄せをし、集めた客を賭博や麻薬、犬食へと引き込むといった手法が横行していたという。
長野重一氏が1958年に撮影したアヘン窟の写真から当時を知ることができる。無気力に横たわる男性数名が、アヘンを炙る炎にうっすらと照らされている様子がそこかしこに見られたのであろう。九龍城砦内の東には南北に繋がる「光明街」という通りがあるが、その名の由来は昼夜問わずアヘン窟のテーブルに蝋燭の火が灯っていたからだという。名前に反して実に希望のない話である。この頃の九龍城砦は東西に分かれており、アヘンや賭博が横行していたのが東地域、西地域は善良な人々の居住区であったという。