当初は江戸より関西の力士のほうが多かった

 江戸時代のプロ相撲は、各地に点在していたが、江戸、京都、大阪が“三ヶ津の大相撲”と呼ばれメジャーな存在だった。すべての芸能同様、相撲も当初は大阪や京都が主流で、いずれも東西2枚の横番付だった。

 江戸の相撲もだんだん勢力を伸ばしていったが、関西に比べれば力士の数が少なかったため、宝暦7(1757)年に東西を1枚に収めた縦番付が考案された。当初は苦肉の策だったが、力士のランクが一目で見やすいことが好評を博し、現在まで連綿と続いている。

 ちなみに、京都相撲は明治末期に消滅し、大阪相撲は大正時代には危機的状況となり、昭和2(1927)年に東京相撲に吸収合併された。日本のプロ相撲団体が統一されたことにより財団法人(現在は公益財団法人)の資格を得ることに成功した。

 江戸で考案された縦番付は5段階あるが、現在のように地位分けがなされていたわけではない。上から上段、二段目、三段目、四段目、五段目と機械的に呼ばれ、当初は三役と序列を示すにすぎなかった。現在の幕内格は三段目の中頃まであったと考えられている。

「幕内」の語源ははっきりしていない

 それが時代とともに整備されていき、文政年間(1818〜1830)頃から幕内は上段に限るようになった。幕内の語源は将軍上覧相撲の時に上位力士が幕の中に控えていたため、というのが通説となっている。しかし上覧相撲が行われる前にも幕内の名称があったという説もあり、はっきりしたことはわかっていない。

 二段目は幕内の下位ということで、幕下、三段目は以前の呼称がそのまま残った。とすれば次は四段目になりそうだが、日本は古来「四=死」のイメージがあって縁起悪いとされていたので、序ノ口の二段ということで「序二段」、五段目は出世の上り口ということで上ノ口(明治になって序ノ口)と呼ばれるようになった。

 また、幕末ごろから幕下十枚目までの力士が給金十両を与えられ、関取待遇となった。そのため十両の俗称が生まれたが、今でも十両の正式名称が、十枚目といわれるのはそのためだ。