ちなみに前頭とは番付に載らない前相撲の頭の意味で、本来は役力士以外で番付に載っている力士はすべて前頭だが、現在では幕内力士の順列を表す時に「前頭○枚目」として使われることが多い。

 番付上位は当初から大関、関脇、小結の三役だった。大関、関脇の名称由来は前述の通りだが、小結はいくつかの説はあるものの、どういう経緯で誕生したかはっきりわかっていない。

江戸時代の役力士は東西に大関、関脇、小結が1人ずつの計6人がきっちりと守られていた(画像は天明2年2月場所の番付)
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上覧相撲に合わせて新たに誕生した「横綱」の地位

 最後に地位に加わったのが、現在では大相撲を象徴する最高位・横綱だ。寛政元(1789)年11月に、相撲の家元・吉田司家の19世吉田追風が、谷風、そして小野川に横綱免許を与えたことを嚆矢とする。

実質的な初代横綱の谷風

 前述の通り江戸の大相撲は当初、京都・大阪が中心だったが、天明(1781〜1789)ごろから江戸勧進相撲が興行のメインとなっていった。さらに寛政3(1791)年には、将軍家斉による史上初の大規模な上覧相撲が行われることになった。そこで相撲の家元・19世吉田追風が派手なデモンストレーションを画策したのである。その頃は相撲家元を名乗る者が多く、それらのライバルをしのぎ、吉田家を総司家とする絶好のチャンスだったからだ。

 そこで上覧相撲の直前の寛政元年11月の江戸本場所7日目にあたる11月29日、当時の東西の最強力士の谷風と小野川への横綱伝達式を土俵上で行った。その後、両力士は現在同様、太刀持ちと露払いを従えて1人土俵入りを披露。化粧まわしの上に四手(しで)を垂らした純白の注連縄(しめなわ)を締めた横綱は、古今のどんなスポーツのチャンピオンをもしのぐ権威付けといっても過言ではなく、たちまち江戸中で大評判となった。