(歴史ライター:西股 総生)
【前編】「納得がいかない」「誤審ではないか」紛糾する事態は数知れず…なぜサッカーのVARだけが問題となるのか?
【中編】オフサイドは「ラインを出ている」かではなく「プレーに関与した」かどうか…サッカーのVAR問題の本質
大切なのは、観ている側の「納得感」
(中編から続く)そもそもサッカーは採点競技でも、計測タイムを争う競技でもない。それに、選手たちは目からレーザー光線を出して、オフサイドラインを測定しながらプレーしているわけでもない。であるなら、人間が五感で判断しながらプレーしている経過を、ミリ単位で測定することに何の意味があるのだろうか。
おわかりだろうか? オフサイドの判定について、機械的な判定精度をいくら上げても、判定基準をいくら厳密にしても、選手も観客も幸せにはなれないのである。しかも、実際には「プレーに関与したかどうか」という、抽象的な判断も加わる。「関与したかどうか」なんて、機械的な判定精度を上げることが、そもそも不可能な要素ではないか。
ハンドもしかり。ファウルも同様。要するに、オフサイドもハンドもファウルも、そもそもが機械的な判定になじまないものなのである。だから、「誰かルールをわかっている中立で冷静な人」に裁定してもらって、皆その裁定に従おう、というのがサッカーにおける審判の存在価値なのである。ゆえに「審判をリスペクトしよう」という理念が必要だったわけだ。
以上のように考えると、問題の本質が浮かび上がってくる。サッカーにおけるVARは、そもそも機械的・客観的な判定がなじまない領域に、テクノロジーを持ち込んで解決を図ろうとしたことが問題なのだ。経験と使命感に裏打ちされた、冷静な主観を持った生身の人間にしかジャッジできない事象を、テクノロジーによって解決できる、という幻想を抱いたことがVARの「原罪」なのである。
サッカーにおけるVAR問題の解決策として、テニスや野球のようなチャレンジ制を導入してはどうか、という意見がある。けれども、筆者はチャレンジ制では問題の本質は解決しない、と見ている。
ボールがラインを超えたかどうか、野手のグラブにボールが収まるのと走者がベースを踏むのと、どちらが早いか、といった問題は機械的に白黒がつけられる。だから、テニスや野球では誤審があまり問題にならないのだ。
サッカーの場合、そもそもが機械的に白黒をつけきれない事象は、テクノロジーに委ねても解決しない、というのがVAR問題のキモなのである。では、どうすればよいか。
ここで筆者が興味深く感じるのが、大相撲である。大相撲で物言いがついた場合、どちらの力士が先に土俵を割ったか(ないしは手や尻をついたか)、といった要素はVTRによって客観的にジャッジができる。
けれども実際には、「体が飛んでいる(死んでいる)」かどうか、といったファジーな要素が絡んでくるケースもある。サッカーのオフサイドで「ブレーに関与したか」と、同じようなものだが、誤審が問題になったりはしない。
なぜかというと、会場の観客もテレビの視聴者も「親方衆が話し合って結論を出したのだから」と納得するからだ。しかも、相撲の場合は「取り直し」という決着もある。取り直しに不平を抱く相撲ファンは、まずいない。機械的・客観的にジャッジできない問題で
もっとも大切なのは、観ている側の「納得感」なのである。
サッカーのVARにおける最大の問題は、テクノロジーを導入することで判定の確度が向上する、という幻想に溺れて、観る側を納得させる工夫・努力を怠ってきたことにある。わけても日本の場合、サッカー後進国であるにもかかわらず、観客を納得させられる工夫・努力は為されていない。
サッカー人気の凋落を招きたくないのであけば、日本サッカー協会もJリーグも、納得感のあるVARの運用、という課題に取り組んでみてもよいのではないか。