もともと横綱という言葉は存在したらしいが、この新スタイルの横綱は、何をベースとしたか、はっきりとはわかっていない。19世追風が、人気の起爆剤として家伝や故実を都合よく解釈し、新しい権威を創出したのは間違いない。

 だが当時は封建社会で、前例のない新規の儀式はほとんど禁止されていた。吉田司家は寺社奉行に提出する書類に「(横綱免許は)綾川、丸山と申す者に伝授したことがあるが、その時の書類は火事で失った」とうまく体裁を整えて、事なきを得ている。

明治23年、番付に初めて「横綱」登場

 とはいえ江戸から明治にかけての横綱はあくまでも強豪大関に与えられる称号だった。大相撲の三役とは従来どおり小結、関脇、大関を指し、横綱免許制度が定着しても、大関が最高位だったことに変わりはなかった。

 初めて「横綱」の文字が番付に載ったのは明治23(1890)年5月場所の西ノ海だった。同年の3月に横綱免許を受けたが、番付では後進の小錦に大関の正位を譲り、欄外に張り出されることになった。これに西ノ海がクレームをつけたため、協会は番付に初めて横綱と明記して事態を収拾させた。もちろん番付の横綱の文字は形式的なもので、依然地位は大関だった。

初めて横綱の文字が載った明治23年5月場所の番付
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 また、横綱を大関から分けて考え、順番をつけて並べたのは、相撲協会でも吉田司家でもなく、幕末の強豪力士、陣幕だった。陣幕は自分も含め、横綱免許を受けた大関だけを名誉ある偉大な力士と考え、引退後の明治24年ごろに「第○代横綱」と呼ぶ代数をつけた。