「横綱力士碑」で一般的になった歴代横綱の順番
その際、実質初代の谷風の前に、伝説の日の下開山(ひのしたかいさん=天下一の別称で、のちに横綱力士を指す言葉となる)の明石を初代とし、都合上、横綱免許を与えられたことになっている綾川と丸山を2代、3代に配した独自のものだった。ところがその名を刻んだ「横綱力士碑」を明治33(1900)年に深川八幡に完成させたため、この順番が一般的になってしまい、実質は初代の谷風が4代目の横綱とされるようになった。
こうした一連の流れが横綱を地位として考える前提となり、旧両国国技館オープン直前の明治42(1909)年2月に、「横綱大関(横綱を許された大関)の称号は従来最高級力士と称せしも爾来最高位置の力士と改称する」と、横綱が地位ということを明文化したのである。
これ以降、役力士は、横綱・大関を別格扱いとし、関脇・小結を三役と呼ぶことが一般的になっていった。