大鵬の取組が近づくと女風呂がガラガラになった

大鵬幸喜(横綱)

 全盛期には“巨人・大鵬・卵焼き”と、子供の大好きなものに例えられる流行語が生まれた。双葉山とともに昭和を代表する角界の大ヒーローだ。

大鵬幸喜

 南樺太敷香町(現ロシア・サハリン・ボロナイスク)に昭和15年(1940)5月29日に生まれた。

 終戦の年に母親と3人の兄弟は北海道に渡り、道内を転々としたのち川上郡弟子屈に落ち着いた。中学卒業後に高校の定時制に通いながら営林署で働いていたが、昭和31年夏に巡業で北海道に来ていた二所ノ関一門のスカウトの目にとまり、角界入りを決意。同年9月場所に、本名の納谷で初土俵を踏んだ。

 二所ノ関親方(元大関佐賀ノ花)はひと目でその素質を見抜き、英才教育に名を借りた現在では考えられないほどの猛稽古を課した。

 激しい鍛錬が実を結び、昭和35年1月場所に19歳7か月で新入幕を果たすと、初日から11連勝の快進撃。色白の美男だったため、当時、大鵬が登場する頃になると女風呂がガラガラになる、といった「君の名は」ばりのエピソードまで語られた。

大鵬幸喜

 それまで若い女性はほとんど相撲に興味を示さなかったが、今で言う“スー女”が数多く誕生し、ファン層を拡大したことは、大鵬の功績の1つだと言っていいだろう。

 勢いは止まらず昭和36年7月場所、9月場所と連覇を果たし、ライバル柏戸とともに横綱に昇進した。これものちに北の湖に更新されるが21歳3か月は当時の最年少横綱だった。

 187cm、153kg。体が柔軟で、懐も深く受けの巧みさは抜群だったため、“負けない相撲”と称された。左四つが得意だったが、巨体の割には差し身もよく、もろ差しになってのすくい投げも強烈だった。

 昭和44年3月場所2日目に、連勝記録が45でストップしたが、大鵬が土俵を割る前に戸田の足が出ており、“世紀の大誤審”と騒がれた。相撲協会は、翌5月場所から勝負判定の参考にビデオを導入することを決定した。

 昭和46年5月場所に、新進気鋭の小結貴ノ花に敗れると引退を決意。優勝32回は、アンタッチャブルレコードと思われたが、平成27年(2015)1月場所に白鵬によって塗り替えられた。

 しかし5大関を相手に30番以上も稽古をこなし、1番も負けなかったという大鵬のほうが、相撲内容では優っており、史上最強の横綱という関係者も多い。

 引退後は一代年寄大鵬を名乗り、大鵬部屋を創設。36歳の時に脳梗塞で倒れたが、たゆまぬ努力で回復し、関脇巨砲(おおづつ)らを育て挙げた。また理事として相撲協会の発展にも尽くした。

 平成25年1月19日、心室頻拍のため72歳で死去。同年2月に角界2人目の国民栄誉賞が送られた。

大関時代にはレコードを発売してヒット

北の富士勝昭(横綱)

 明朗活発で、それまでのやや堅苦しいイメージの横綱像を一新させ、“現代っ子横綱”と言われた。

 昭和17年(1942)3月28日に北海道旭川市で生まれた。中学時代は野球部に所属し、プロ野球を目指していた。肩を痛めていた時期に出羽海部屋のスカウトに勧誘され、東京へ行きたい一新で入門を決めた。

北の富士勝昭

 昭和32年1月場所に初土俵。細身だったため、出世がそれほど早いほうではなかったが、38年3月場所に新十両になると上昇気運に乗る。同年11月場所では15戦全勝優勝を果たし、翌39年1月場所に新入幕。13勝の好成績を挙げていきなり敢闘賞を受賞し、一躍花形力士の仲間入りを果たした。

 昭和41年7月場所後に大関に昇進したが、大関3場所目の42年1月場所後に“九重事件”が起きる。当時の出羽海部屋は「分家を許さず」の不文律があった。そうした状況下の中、同部屋の九重親方(元横綱千代の山)が分家独立を決意。結局一門から破門されて、高砂一門として九重部屋を創設した。北の富士も九重親方と行動をともにし、直後の41年3月場所では14勝1敗で劇的な初優勝を果たした。

北の富士勝昭

 昭和44年11月場所、翌45年1月場所と連覇を果たし、場所後、ライバル玉の海とともに横綱に昇進した。

 185cm、135kg。かち上げから左を差しての速攻相撲が持ち味で、強烈な右上手投げ、外掛けも得意だった。気合が乗った場所では爆発的な強みを見せたが、序盤につまずくと大きく崩れるなど、天才肌に付き物の気まぐれな面が存在した。

 甘いマスクに、開放的な性格で話術も巧み。大関時代にはレコードを発売してヒットするなど、常に話題を提供した。夜の銀座では最もモテた力士とも言われている。

 昭和49年7月場所で引退。年寄井筒から九重になり、横綱千代の富士、北勝海らを育てた。平成4年(1992)に千代の富士に九重を譲り、陣幕に名跡変更して理事としても協会に貢献した。10年1月限りで角界を離れ、NHKの名解説者として活躍していたが、令和6年(2024)11月12日に82歳7か月で亡くなった。昭和以降に生まれた横綱では、栃ノ海の82歳10か月に次ぐ長寿だった。