北の富士が「カッコよさで負ける」と嘆いた力士は誰か

龍虎勢朋(小結)

 龍虎は昭和32年(1957)1月場所初土俵で横綱北の富士と同期。その美男横綱をしても「龍虎にはカッコよさ負けするなあ」と嘆いたほどのイケメン力士だった。

龍虎勢朋

 龍虎は昭和16年1月9日に東京大田区に生まれた。子供の頃から長身で、両親が力士にさせようと考えていたこともあり、花籠部屋に入門した。しかしなかなか体重が増えず、出世は順調だとは言い難かった。昭和43年3月場所に入幕するまで11年66場所もかかっている。同期の北の富士は大関、初土俵が1場所早く、同じ学年だった大鵬は横綱8年目だった。

 186cm、132kg。右四つになっての外掛けや、突っ張っておいての肩透かしなど、江戸っ子らしい気っ風のいい相撲が持ち味。入幕後は小結を務めたり、13勝を挙げて準優勝を記録するなど、人気力士として活躍していたが、2度もアキレス腱を切断。幕下下位まで落ちながらまた小結に返り咲いた。

 プレイボーイと言われ、一見ちゃらんぽらん見えたものの、龍虎こそ兄弟子・二子山親方(元横綱初代若乃花)の座右の銘だった「人間、辛抱だ」の実践者だった。

 引退後は一時放駒を襲名したがすぐに廃業。タレントに転身し、テレビや時代劇などで活躍した。

 平成26年(2014)8月29日、心筋梗塞のため73歳で亡くなっている。

五輪「金メダルでは飯が食えない」と角界入り

貴ノ花利彰(大関)

 初代若乃花の実弟で端正なマスクから「角界のプリンス」と呼ばれた。軽量ながらも稽古熱心で相撲一筋。土俵上にはやや悲愴感がただよい、判官びいきの日本人にはたまらない存在で、史上最も人気のあった大関といっていいだろう。

 貴ノ花は昭和25年(1950)2月19日に、青森県弘前市で生まれた。父の死をきっかけに長兄の横綱初代若乃花を頼りに一家で上京。

 抜群の運動神経の持ち主で、中学時代には100mバタフライの中学新記録を樹立。メキシコ五輪の候補生だったが、「金メダルでは飯が食えない」との名言を吐いて兄の二子山部屋へ入門した。現在のようにアマチュアスポーツでも、活躍次第で生計が成り立つ状況では、角界入りしなかった可能性が高い。

 昭和40年5月場所に初土俵を踏むと負け越し知らずで番付を駆け上がり、新十両、新入幕とも当時の史上最年少を記録。47年9月場所後に輪島とともに大関に昇進したが、輪島が一気に横綱まで昇進したのに対し、けがや内臓疾患に悩まされ低迷した。

 それでも地道に精進を重ね、昭和50年3月場所では悲願の初優勝。超満員の大阪府立体育会館は座布団が無数に舞い、異常な熱狂と興奮に包まれた。

貴ノ花利彰

 183cm、105kg。左四つからのつり寄りが得意。スリムな体形ながら脅威の粘り腰でファンを魅了した。三役時代にはNHKの解説者だった玉ノ海梅吉氏が「貴ノ花の下半身にはもう1つの命がある」の名言を吐いた。

 昭和47年1月場所の北の富士戦では、貴ノ花は北の富士の右外掛けで弓なりになりながらも左後方へ振り、北の富士の右手が「つき手」か「かばい手」かの大論争を巻き起こしたこともある。

 最後まで軽量に悩まされ、最高位を極めることができなかったが、大関在位はその後千代大海と魁皇に破られたものの、当時としては史上1位の50場所だった。

 引退後は藤島部屋を興し、その後二子山部屋と合併。実子の横綱貴乃花・3代目若乃花や大関貴ノ浪、関脇安芸乃島・貴闘力など、平成の相撲ブームをけん引した数多くの力士を育成。相撲人気に関しては、並みの横綱以上ともいえる抜群の貢献を果たした。

 平成17年(2005)5月30日に口腔底がんのため死去。55歳の若さだった。