幕内平均体重を下回る軽量でも大横綱と呼ばれた千代の富士

2代目若乃花幹士(横綱)

 色白の美男に加え、人懐っこい笑顔。華のある力士で、番付を駆け上がった若三杉時代には、多くの女性ファンを魅了した。

 昭和28年(1953)4月4日に、青森県南津軽郡大鰐町で生まれた。子供の頃から相撲が好きで、中学時代も相撲部で活躍し、3年時の6月に二子山親方(元横綱初代若乃花)が直接勧誘に来た。

 その時、1つ年上の高谷(のちの隆の里)も一緒に入門を決意。未来の横綱2人が、夜行列車に乗って青森から上京したのは有名なエピソードだ。

 昭和43年7月場所に初土俵を踏むと、負け越しなしで一気に幕下まで進み、“大鵬二世”と騒がれた。48年11場所に新入幕、52年1月場所後に大関に昇進。翌53年は安定した成績を続け、5月場所後に横綱に推挙されると、しこ名をそれまでの若三杉から若乃花に改めた。

2代目若乃花幹士

 186cm、129kg。柔らかい体に懐の深さが持ち味。左四つからの右上手投げは、左下手からのひねりとの併せ技で、実に華麗だった。また足腰のよさも抜群で、大関時代には鷲羽山に土俵際まで追い詰められたが、左まわし一本でうっちゃるような片手はりま投げを決めている。

 昭和55年10月には師匠の二子山親方の長女と結婚。しかし翌年には離婚したため、親方との間がギクシャクする仲になってしまった。その上、頚椎捻挫や病気にも苦しめられ、58年1月場所に引退。まだ29歳9か月だった。北の湖や輪島といった強豪がいたこともあり優勝は4回。期待されたほどは大成しなかった。

 引退後は間垣部屋を興して幕内五城楼らを育成した。理事にもなって協会の運営にも携わっていたが、平成17年(2005)に脳出血で倒れた。その後遺症もあり十分に弟子を指導できなくなり25年3月に経部屋を閉鎖。部屋の力士は伊勢ヶ浜部屋に移籍し、同年12月には協会を去った。令和4年(2022)7月16日に肺がんのため死去。69歳だった。

千代の富士貢(横綱)

“ウルフ”と呼ばれた精悍な風貌に、鍛え抜かれた筋骨隆々の肉体。幕内の平均体重を大きく下回る軽量で、大横綱と呼ばれたのは、千代の富士だけである。

 昭和30年(1955)6月1日に北海道松前郡福島町で生まれた。子供の頃からスポーツ万能で、特に陸上競技では走るのも速く、地方大会で走り高跳びや三段跳びでの優勝経験がある。そのまま陸上を続けていれば、オリンピック出場も可能だったと言われている。

千代の富士貢

 こうした評判を聞きつけた同じ町出身の九重親方(元横綱千代の山)が、スカウトに来て、昭和45年9月場所に初土俵を踏んだ。

 しかし下位の頃からたびたび左肩の脱臼を繰り返し、何度も回り道を余儀なくされた。それでも昭和50年9月場所には20歳で新入幕、53年7月場所は新小結とそれなりに出世の階段を上がってはいたが、54年3月場所の播竜山戦では初めて右肩を脱臼。「このままではダメになってしまう」と肉体改造を決心する。

 腕立て伏せなどのトレーニングを繰り返し、筋肉の鎧をつけることによって脱臼癖を克服。また、投げを連発していた相撲から、立ち合いにダッシュして左前みつを取り、一気に前に出る合理的なものに変えた。

 昭和56年1月場所には、決定戦で北の湖を下し初優勝を果たし、大関に昇進。“ウルフフィーバー”と呼ばれ、千秋楽の視聴率は52.2%だった。勢いは止まらず、同年7月場所に2度目の優勝を果たし、場所後横綱に推挙された。

 183cm、127kg。体重200kg超えの小錦や大乃国、身長200cmの双羽黒など超大型力士がひしめく中で、小さな体ながら第一人者として土俵に君臨した。横綱昇進後は、さらにスピードとパワーが増し、右で頭を押さえながら打つ左上手投げは豪快で“ウルフスペシャル”と言われた。

千代の富士貢

 昭和63年に、双葉山に次ぐ53連勝を達成。平成元年(1989)9月場所には史上1位となる通算965勝を挙げ、場所後に相撲界初の国民栄誉賞も受賞した。優勝回数も大鵬に次ぐ31回を記録した(いずれも当時)。

 平成3年5月場所に、18歳の新進気鋭の貴花田に負けたことがきっかけとなり、引退を決意。一代年寄を断って年寄陣幕を襲名。4年4月には九重となり、部屋を継承して大関千代大海ら多くの弟子を育てた。

 平成28年7月31日に肝臓がんのため61歳で死去した。

蔵間竜也(関脇)

 蔵間は昭和27年(1952)12月16日に、滋賀県野洲郡野洲に生まれた。野洲中時代はたしなんだ程度で柔道二段。近江八番工高時代はラグビーの名FB(フルバック)として鳴らした。素質を見込まれ、時津風部屋からスカウトを受けると、父親の勧めもあり、高校を中退して角界入り。

 昭和43年9月場所で初土俵を踏んだ。素質十分ながら腰痛の持病もあり、出世は決して早いほうではなかった。それでも昭和51年7月場所に新入幕を果たすと、甘いマスクで多く女性ファンを魅了し、一躍人気力士の仲間入りを果たす。

蔵間竜也

 188cm、136kg。取り口は正攻法で、左四つからのつり寄りが得意。体の柔らかさや懐の深さもあり、横綱・大関とがっぷり四つに渡り合ってもかなりの地力を見せた。しかし、なかなか勝ちに結びつかなかったことから“善戦マン”の異名をとった。

 夫人は元女優の渡辺やよい。若い力士の間では、横綱・大関になって苦労するより、三役で相撲人生をエンジョイし、芸能人の妻をゲットした蔵間が憧れの存在だったという。

 引退後は一時錣山を襲名したものの、すぐにタレントに転向。巧みな弁舌でテレビを中心に活躍していたが、白血病に倒れ、平成7年(1995)1月26日、42歳の若さで亡くなった。

【ほかの回を読む】
①イケメン力士列伝「幕末〜昭和初期」を読む
③イケメン力士列伝「平成〜令和」を読む