2024年11月、NHKの名解説で親しまれた第52代横綱の北の富士勝昭さんが82歳で亡くなった。現役時代は美男な上に取り口が派手だったこともあり、実に華のある力士だった。プロ相撲が何百年と人気を維持してきた背景には、北の富士のようなイケメン力士たちの存在が欠かせなかった。3回に分けて、そんなイケメン力士を紹介する本シリーズ、今回は「平成〜令和」に活躍の力士を紹介する。
【ほかの回を読む】
①イケメン力士列伝「幕末〜昭和初期」を読む
②イケメン力士列伝「昭和中期〜後期」を読む
(長山 聡:大相撲ジャーナル元編集長)
「角界のアラン・ドロン」と称された霧島
霧島一博(大関)
「角界のアラン・ドロン」と言われるほどの美男子で、ヘラクレスのような体。千代の富士時代から若貴時代に移る一時期、横綱が不在だったが、角界最高位として土俵に君臨したこともあり、相撲人気を盛り上げた。
霧島は昭和34(1959)年4月3日に鹿児島県霧島市牧園町に生まれた。小学生時代から、鉄の下駄をはいて学校に通うなど、体を鍛えるのが好きだった。
サッカーに夢中になっていたが、中学にサッカー部がなかったため野球部を選び、2年の時に柔道部に転部。地区大会で優勝経験もある。君ヶ浜部屋(のち井筒部屋)からスカウトを受け、当初は断っていたが、相撲界入りを決意。昭和50年3月場所に初土俵を踏んだ。
軽量のため下積み生活が長かったが、昭和59年7月場所に新入幕。しかし、新三役だった62年1月場所は3勝12敗、再三役だった平成元年(1989)1月場所は1勝14敗と上位に定着できる力はなかった。
もともと筋トレが趣味だったが、「バーベルが恋人」というほど打ち込んで肉体改造。パワーアップを果たすと、平成2年3月場所には関脇で目標だった千代の富士に初めて勝つなど13勝を挙げ、場所後に平成初の大関に昇進した。30歳11か月という遅咲きだった。
187cm、132kg。左四つで両まわしを引くと、高々とつり上げる力強い相撲が持ち味。平成3年1月場所には14勝1敗で初優勝を飾り、横綱目前までいったが、腰や右肘の故障で果たせなかった。
引退後は陸奥部屋を興し、大関2代目霧島や、井筒部屋から移籍してきた横綱鶴竜などの弟子育成に励んでいたが、令和6年(2024)の定年退職に伴って陸奥部屋を閉鎖。所属していた力士は音羽山、荒汐、伊勢ノ海の3部屋に分かれて移籍。陸奥自身は音羽山部屋付きとして、再雇用で相撲協会に残ることとなった。
寺尾常史(関脇)
寺尾は井筒(元関脇鶴ヶ嶺)三兄弟の三男で、昭和38年(1963)2月2日生まれ。出身地は父の故郷である鹿児島県姶良市になっているが、実際は井筒部屋のあった東京都墨田区で生まれた。子供の頃から力士に憧れ、父がいつも負けていた「大鵬を倒すんだ」と言っていたという。
安田学園高校2年の時に母親の節子さんががんでなくなり、「力士になるのが一番の親孝行」と中退して相撲界に入門。長男(十両鶴嶺山)、次男(関脇逆鉾)に続いて、兄弟全員が父の跡を継いだ。ちなみに寺尾のしこ名は母親の旧姓だ。
昭和54年7月に初土俵。なかなか太らない体質だったこともあり、「当初の目標は三段目」だったというが、地道に番付を上げていき、60年3月場所に新入幕を果たした。
186cm、117kg。軽量ながらどんな相手にも真っ向からぶつかり、回転のいい突っ張りや、タイミングのいいいなしなどが持ち味。全力投球の相撲に加え、端正なマスクということもあり、常に幕内屈指の人気を誇った。
不整脈という持病がありながらも、誠実に土俵を務め、平成8年(1996)7月場所には、幕内連続出場1000回を記録。「角界の鉄人」の異名を取った。
引退後は錣山部屋を創設。関脇阿炎、小結豊真将などの人気力士を輩出していたが、令和5年(2023)12月17日にうっ血性心不全のため死去。60歳だった。