新十両、新入幕、新小結、新関脇、初優勝、新大関、すべて史上最年少

貴乃花光司(横綱)

 大相撲史上、最も世間の耳目を集めた横綱だろう。

 優勝回数22回は史上6位だが、一点の曇りもない真摯な土俵で、相撲内容は戦後ナンバー1の横綱という声も多い。

貴乃花光司

 昭和47年(1972)8月12日に、人気大関だった貴ノ花の次男として、東京・中野区で生まれた。伯父も横綱初代若乃花。相撲一家という恵まれた環境から、子供の頃からわんぱく相撲で活躍した。

 兄(若乃花)とともに昭和63年3月場所に初土俵を踏むと、資質を無駄にしない猛げいこで番付を駆け上がった。新十両、新入幕、新小結、新関脇、初優勝、新大関とすべて史上最年少の記録を塗り替えた。

 相撲の申し子というストリー性に加え、整った顔立ちということもあり、相撲界は空前のブームを迎えた。“若貴ブーム”と呼ばれたように、兄、若乃花の存在も大きく、場所中のスポーツ新聞や、ワイドショーなどで一挙手一投足が大きく取り上げられた。テレビも空前の高視聴率が続き、平成5年(1993)7月場所千秋楽の曙、若貴の優勝決定巴戦では、瞬間視聴率が、66.7%を記録した。

貴乃花光司

 不当な見送りもあり、横綱昇進にはやや時間がかかったが、平成6年9月場所、11月場所と連続全勝優勝という、パーフェクトな形でようやく横綱を許された。

 185cm、160kg。本格的な四つ相撲で、本来は右四つだが、左四つでも遜色なく渡り合えた。たとえ相手有利な体勢を許しても、まわしを切ったり巻き替えたりするテクニックは卓越しており、いつの間にか自分有利な体勢に持ち込むことができた。

 平成9年頃からけがや病気に悩まされたが、平成13年5月場所では、14日目に右膝を負傷しながらも、翌千秋楽は決定戦で横綱武蔵丸を破り22回目の優勝。当時の小泉純一郎首相が表彰式で「感動した」と絶叫するほど、列島を熱くする相撲だった。

 引退後は、一代年寄貴乃花として二子山部屋を継承し、平成16年2月には貴乃花部屋となった。22年2月には二所一門を離脱して、37歳の若さで理事当選を果たした。角界改革などに大きな期待が集まったが、29年11月の日馬富士暴行事件に端を発した一連の事件で、相撲協会を敵に回したこともあり、理事から平年寄まで降格。結局、30年9月に相撲協会を退職した。

 現在は相撲の普及活動を目的とする一般社団法人貴乃花道場の理事を務め、同時に絵本作家やタレント活動も行っている。

脚本家で好角家の内館牧子さんが惚れ込む

琴ノ若晴将(関脇)

 スポーツ雑誌「Number」で、角界美男ナンバーワンに選ばれたほどの甘いマスク。女性ファンも多く、かつて好角家の内館牧子(脚本家)さんが「スター性では琴ノ若が一番」とほれ込んでいた。

 琴ノ若は昭和43年(1968)5月15日に、山形県尾花沢市に生まれた。中学時代は柔道部に所属し、北村山郡大会で優勝。長身のため駆り出された砲丸投げでは山形県大会5位の入賞経験がある。

琴ノ若晴将

 自宅近くの信号待ちをしている際、佐渡ヶ嶽部屋のスカウトに声をかけられ、逃げ回っていたが、最終的に入門を決意。昭和59年5月場所に初土俵を踏んだ。「素質的には問題ないが、闘志が足りない」と先代の佐渡ヶ嶽親方(元横綱琴桜)が嘆いたほどおだやかな性格。出世も同期で同部屋の琴錦に後れを取ったものの、平成2年(1990)11月場所に新入幕を果たした。

 191cm、181kg。堂々とした体格で、右四つ、左上手を取ると横綱・大関級の地力はあったが、相撲が遅いのが欠点。最近の力士では珍しく平成6年の武蔵丸戦など4度の水入りを経験。「ミスター1分」の異名を取った。

 土俵実績では琴錦に劣るが、師匠の長女と結婚して養子になり、引退後は佐渡ヶ嶽部屋を継いだ。

 現在は長男の大関2代目琴桜や、琴勝峰ら若手有望力士の育成に努め、再び佐渡ヶ嶽部屋の隆盛を目指している。

小兵力士を多く誕生させるきっかけになった舞の海

舞の海秀平(小結)

 意表をつく動きや、それまでほとんどスポットライトを浴びてなかった技を繰り出し、新たな相撲の新たな魅力をアピールした功労者だ。

 舞の海は昭和43年(1968)2月17日に、青森県西津軽郡鰺ヶ沢町に生まれた。相撲どころということもあり、幼少の頃から相撲に親しんでいた。小さい体ながら名門の日大相撲部で活躍し、全日本相撲選手権大会ベスト32の実績が認められ、幕下付け出しの資格を獲得した。

 しかし当時の新弟子検査の基準は、173cm、75kg以上だったため、身長不足で不合格。頭にシリコンを入れてまでプロ入りしたエピソードはあまりにも有名だ。平成2年(1990)5月場所にデビューすると、負け越しなしで3年9月場所に新入幕を果たした。

舞の海秀平

 170cm、96kg。明治・大正時代なら平均的な幕内力士の体形だが、ハワイトリオを始め、幕内に巨漢力士が数多く存在した平成の土俵では、考えられないほどの小兵力士だった。

 左四つで下手を取るとしぶとく、下手投げや切り返しなどの多彩な技を見せる。しかし、小兵でも立ち合いに強く当たる必要がある、と指導する相撲界では舞の海は異質の存在だった。

 猫だましや、前に出て当たらずに後退したり、飛び上がってからしゃがむようにして相手力士の懐に飛び込むなど、立ち合いに奇想天外の動きで相手を翻弄した。

 立ち合いに変化することは珍しいことではないが、ジャンプしながら変化する、いわゆる“八艘跳び”は従来になかったもので、舞の海が初めて土俵に導入した。

 また、決まり手制定以降で、幕内初となる「三所攻め」を決めるなど「技のデパート」の異名通り、多彩な技を誇った。

 お相撲さんとは思えぬ可愛らしい顔立ちということもあり、若貴に劣らぬほどの人気を博した。舞の海の成功が、その後の炎鵬・照強などの小兵力士を多く誕生させた一因となっているのは間違いない。

 引退後はタレントに転身。NHK大相撲中継の専属解説者や、旅番組のレポーターなど八面六臂の活躍を続けている。