父の期待に背いた「徳川家重」のダメ将軍ぶり
もちろん、吉宗も当初はわが子の家重に十分すぎるほど期待をかけていた。
鷹狩りに連れて行っては体を鍛えさせようとし、また、高名な儒学者である室鳩巣(むろきゅうそう)を家庭教師につけて学問を身につけさせようともした。幼少の頃から吹上(ふきあげ)の庭で行われる裁判を傍聴させたりもしている。
さらに吉宗は「やがて将軍になるならば、民の現状も知っておいてほしい」と考えたのだろう。小菅(こすげ)に別殿を設けたうえで、春秋になれば、家重を数日宿泊させては、周囲の農民たちの苦しみに寄り添わせようとしたこともあった。
だが、吉宗のそんな教育はことごとく空振りに終わる。家重は鷹狩りには興味を持たず、学問にも励む姿勢も見られなかった。それどころか、髪が乱れ放題で、ひげもそらずに、なんともみすぼらしい格好で大奥に入り浸っていたという。
そもそもコミュニケーションに難があった。19世紀前半に編纂された江戸幕府の公式史書である『徳川実紀』では、「生来病弱で言語に障害があり、近臣も聞き取ることができなかった」とされている。
果たして家重に将軍が務まるのだろうか。そんなムードが漂う中、4歳年下の次男・宗武(むねたけ)が注目され始める。宗武は兄の家重とは違い、学問も得意で武芸にも長けていた。
しかし、吉宗は結局、長幼の序を重んじて、家重の方を後継に決めている。吉宗も徳川家だけのことを考えれば、優秀な宗武を選んだかもしれない。だが、吉宗が次男や三男を跡継ぎにすれば、諸大名にもそれを許すことになり、お家騒動が多発しかねない。
とはいえ、「家重に将軍が務まるのか」という不安を誰よりも抱えていたのは、ほかでもない父・吉宗だったのだろう。そこで吉宗は、自分が信頼する紀州藩士たちを家重のそばに置いて、フォローさせることにした。