(永井 義男:作家・歴史評論家)
2025年1月5日から始まる大河ドラマ「べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜」。主人公の“蔦重”こと蔦屋重三郎は、どんな人物だったのか?江戸時代の庶民の生活や文化、春画や吉原などの性風俗まで豊富な知識をもつ作家・永井義男氏が、蔦屋重三郎と吉原について紹介します。(JBpress)
吉原の子、蔦屋重三郎
吉原は総面積は二万坪以上あったが、塀と堀で囲まれ、大門が唯一の出入口だった。
俗に「遊女三千」と称されたように、二百軒以上の妓楼に合わせて三千人前後の遊女がいた。そのほか、妓楼は若い者や下男下女など、多数の奉公人を抱えている。さらに、妓楼以外にも各種の建物があり、商人や職人、芸人などが住んでいたので、吉原の定住人口は一万人に近かった。
現代、「企業城下町」という言い方があるが、それにならえば、吉原はまさに「遊女城下町」と言えよう。すべての仕事が直接間接に妓楼にかかわっており、遊女を中心に動いていたと言っても過言ではない。
蔦重は一七五〇年(寛延三年)、吉原に生まれた。両親の職業は不明だが、遊女にかかわる仕事をしていたのは間違いあるまい。親戚にも遊女関連の仕事に従事する者が多かった。蔦重はまさに「吉原の子」だったのである。
十代のころの蔦重についてはよくわかっていないが、遊女や妓楼の関係者、さらには吉原に通う男たちと親しく交際していたことは想像に難くない。こうした人間関係が、後に生きてくる。
大門の外の五十間道で、親戚が茶屋を経営していた。蔦重は安永元年(一七七二)、この茶屋の店先を借りて小さな書店を始めた。蔦重、二十三歳のときである。
図1に大門が描かれている。大門の外(手前)が五十間道である。
安永三年には、最初の出版物『一目千本』を刊行した。蔦重が書店を始めたのはあくまで足がかりを得るためで、もともと出版に意欲と情熱をいだいていたのがわかる。そして、翌四年には、『吉原細見』の出版に参入する。