図1 三浦屋の高尾『古代江戸絵集』(豊国)、国立国会図書館蔵

(永井 義男:作家・歴史評論家)

江戸の常識は現代の非常識? 江戸時代の庶民の生活や文化、春画や吉原などの性風俗まで豊富な知識をもつ作家・永井義男氏による、江戸の下半身事情を紹介する連載です。はたして江戸の男女はおおらかだったのか、破廉恥だったのか、検証していきます。

吉原の最高位・太夫伝説

 図1は、吉原の三浦屋の高尾太夫である。

 三浦屋の高尾は吉原の歴史を通じて、もっとも有名な「太夫」といってよい。ただし、高尾は継承された名称なので、何代目の高尾なのかは不明。

 図1を見て、「太夫は美貌だけでなく、教養や気品、気概も兼ね備えていたというが、本当だな」と感じた読者は少なくあるまい。

 言うまでもないが、太夫は吉原の最高位の遊女の称号である。しかし、江戸時代の吉原250年の歴史意を通じて、宝暦年間(1751~65)に太夫は廃止され、以後、上級遊女は花魁(おいらん)と呼んだ。

 つまり、前半の150年には太夫がいたが、後半の100年には太夫はいなかった。そして、現在、時代小説や時代劇に描かれている吉原は後半の100年がほとんどである。そのため、太夫が登場すれば、時代考証の誤りになろう。

 さて、図1に戻ろう。絵師は歌川豊国である。豊国という名称も数代、継承されたが、初代豊国で考えてかまわない。

 豊国は明和6年(1769)に生まれた。なんと、豊国が生まれる前に太夫は廃止されていた。ということは、豊国は吉原で太夫の姿を目にしたことすらなかったのである。しかも、写真や映像記録がない時代である。

 では、豊国はいったい何を根拠に、図1のような太夫の姿を描いたのであろうか? 要するに、図1は、豊国の想像なのである。「昔の太夫は才色兼備で品格があった」という思い込みで、絢爛豪華に描いたのだ。

 すでに江戸時代において、太夫は伝説になっていたのである。