読み書きはできても算盤はできなかった

図2 太夫の実像(右から2人目)『あづま物語』(寛永19年、写本)、国立国会図書館蔵 

 いっぽう、図2は寛永19年(1642)、吉原に太夫がいたころに描かれた絵である。絵師は、実際に太夫の姿を目にしていた。図1の太夫像にくらべると、図2の、なんとも質朴といおうか。だが、これが太夫の実像と言ってよい。

 太夫は大名や豪商と対等に話ができるくらいの教養があり、気位が高いので金銭に頓着しなかったという説がある。

 太夫が当時の銭(コイン)を見て、「これ、何?」と、不思議そうに言ったという逸話もある。銭勘定などしたことがなかったのだ。太夫伝説といおうか。

 筆者は太夫に教養があったことは否定しない。当時、庶民の女は読み書きができない者が多かった中で、吉原の遊女は禿(かむろ)のころから手習いをしていたので、客の男に手紙を書くこともできた。電話もメールもなかった時代、手紙の効果は大きい。

 しかし、である。何をもって教養というのか。初等教育は「読み書き算盤(そろばん)」という。太夫は「読み書き」はできた。しかし、算盤は習っていないので、できなかった。つまり、計算ができなかったのだ。

 どういうことか、次に述べよう。

「イチマンニセンサンビャクヨンジュウ引くゴセンロッピャクナナジュウハチは?」という問題があれば、現代人は電卓などが手元にない場合、紙に「12340」、「5678」という数字を書いて筆算の式を立てる。面倒だが、簡単な引き算である。

 だが、アラビア数字(算用数字)がなかった時代、上記の数字の表記は、「壱万弐千三百四拾」、「五千六百七拾八」となった。これでは、筆算の式は立てられない。つまり、筆算はできなかった。

 ところが、算盤なら簡単に計算ができた。引き算だけでなく、足し算はもちろん、掛け算も割り算もできた。つまり、江戸時代、算盤ができることと、加減乗除の計算ができることは同義語だった。

 算盤を習っていなかった太夫は、現代の小学校低学年のレベルの算数もできなかったのである。

 筆者は上記の、太夫がコインを知らなかった逸話は、じつは簡単な算数すらできなかったことを象徴していたのだと思う。4文銭2枚と1文銭2枚で10文になるなど、太夫は計算できなかったに違いない。

(編集協力:春燈社 小西眞由美)