蔦屋版が市場を独占

『吉原細見』は吉原遊びのガイドブックで、いわば売れ筋商品として、複数の出版社が刊行していた。蔦重は、伝統ある出版社・鱗形屋と契約し、鱗形屋版『吉原細見』を書店で売っていた。

 ところが、鱗形屋に不祥事があり、安永四年版を刊行できなくなった。この事件を好機ととらえ、蔦重は『吉原細見』の出版に乗り出したのである。そして、蔦屋版『吉原細見』は人気を集めた。理由はふたつある。

 ひとつは、他の吉原細見にくらべ、蔦屋版はわかりやすく、見やすかったことである。実用書として使いやすかったと言えよう。

 もうひとつは、頁数を減らす一方で、判型をやや大きくしたことにより、見やすいのはもちろん、価格も下げたのである。

 こうした改良をすみやかに実現できたのも、蔦重が吉原を我が家のように知っており、知己も多数いたからであろう。

 その後、鱗形屋も『吉原細見』の刊行に復帰したが、すでに蔦屋版が不動の位置を占めていた。そして、天明三年(一七八三)には、蔦屋版がほぼ市場を独占した。図2は、蔦屋版『吉原細見』である。

図2『吉原細見』(板元・蔦屋重三郎、天明3年) 国立国会図書館蔵

『吉原細見』は情報誌でもあることから、毎年、ときには半年ごとに改訂版が刊行され、確実に売れた。蔦重は『吉原細見』で経営を安定させることで、大胆な出版企画にも積極的に乗り出して行けたのである。

 天明三年、蔦重は通油町(東京都中央区日本橋大伝馬町)に出版社・書店の耕書堂を開業した。通油町は大手の出版社が集中し、いわば江戸の出版文化の中心地だった。

 通油町に耕書堂を開くことで、三十三歳の蔦重は江戸の出版界の押しも押されもせぬ存在になったことになろう。時に十代将軍家治の治世下であり、蔦重が五十間道に小さな書店を開業してから十年目のことだった。

 以後、蔦重は通油町の耕書堂に移り住み、五十間道の店は手代に任せた。

 (編集協力:春燈社 小西眞由美)