(英フィナンシャル・タイムズ電子版 2025年1月1日付)

ワシントンで演説する英国のマーガレット・サッチャー首相、隣はジミー・カーター大統領とロザリン夫人(1979年12月17日、写真:Universal Images Group/アフロ)

 筆者はかつてテキサス西部で、まだジミー・カーターには我慢がならないと感じているとても人の良さそうな老夫婦に会ったことがある。

 彼の何がいけなかったのか。聞けば、もう40年も前に全米の道路に時速55マイル(約88キロ)の速度制限を設けたことだった。

 しかし、12月29日に死去した第39代米国大統領を叩くことは、保守派だけの娯楽ではなかった。

 カーター氏はジョークのおちに何度も利用された。

 上品で先見の明もありながら、自分の力がほとんど及ばないこと――インフレとイラン問題――で苦労させられた政治家だっただけに、気の毒な仕打ちだった。

 その一方で、あの怒りがなかったら、国民の神経がプツンと切れるあの歴史的な瞬間が1970年代末に来なかったら、その裏返しとして新しい発想が強く求められることもなかっただろう。

 怒りなくしてレーガンなし、だった。

苦痛と改革の関係に見るカーター・ルール

 筆者はこのところ、「カーター・ルール」と呼べそうなものが存在するとの確信をますます強めている。

 裕福な民主主義国が変わるためには危機が必要だ、というのがそれだ。

 国が深刻なトラブルに陥らない限り、有権者に劇的な改革を受け入れさせるのはほぼ不可能だ。慢性的なトラブルでは十分ではない。

 レーガン主義が1980年より前に提示されていたことを思い出してほしい。カーター氏自身も規制緩和論者的な面があり、斬新な考え方をする大統領だった。

 だが、その段階では有権者はまだ、第2次世界大戦後のケインジアン・コンセンサスとの決別を検討するほどにはうんざりしていなかった。

 もっと痛みを感じる必要があった。

 同じ時代の英国との類似は不気味だ。

 社会を覆う沈滞ムード、改革の初歩でのつまずき、そして1976年の国際通貨基金(IMF)からの外貨借り入れという衝撃的な屈辱に至ってようやく、有権者はマーガレット・サッチャーにすべてを委ねる気になった。

 事態が改善するためには、その前にもう1段階か2段階さらに悪化する必要があったのだ。

 この点が腑に落ちれば、今日の欧州の状況がかなりよく分かるようになる。

 英国とドイツは欠陥のある経済モデルから抜け出せずにいる。なぜか。とどのつまり、それほど悪い状況ではないからだ。

 現状は確かに不快だが、改革のコストを前払いしようと思うほど不快ではない。

 そのため年金給付や相続税控除の縮小という小手先で逃れようとし、国民の怒りを買っている。

 これを欧州南部の国々と比べてみるといい。地中海沿岸諸国の大半は改革を成功させている。

 スペインでは経済成長が加速し、ギリシャでは財政の健全化が進み、ポルトガルでは多くの雇用が生まれている。

 これらはいずれも、2010年頃のユーロ圏債務危機の地獄に遭遇したからだった。

 南欧諸国の「性格」やその労働倫理などを論じた識者もいたが、いずれもナンセンスだったことが分かった。

 変化を強いられると、国は変わった。