カーター時代の米国と重なる今日の英国
カーター氏と同様に、スターマー氏は歴史の間(はざま)に陥っている。
改革が必要だという国民の認識は強まってきているのに、自分が政権を担っている間はその気が熟さないということだ。
なぜそうなるのか。
ブレグジット(英国の欧州連合=EU=離脱)は経済成長を阻害しているが、すぐに見直しを迫るような壊滅的打撃をもたらしているわけではない。
国民保健サービス(NHS)はいつも断崖絶壁でよろめいているが、奈落の底には落ちていかない。
さらにひどくなりそうな分野(例えば学校)があると、それを補うかのように改善する分野(例えば都市開発計画)がある。
状況は耐えられる程度にひどい。それでは十分に悪くない。
スターマー氏は慎重すぎると考える向きは、個々の省庁の役割を過大評価しているのかもしれない。
あちらを立てればこちらが立たずという難しい選択をいつなら行う用意があるか――。それを判断するのは役所ではなく、一般の国民だ。
結婚と同じく政治の世界でも、不満を覚えることとそれが限界に達することとの間にはかなり大きな隔たりがある。
もし米国で1972年や1976年に抜本的な政策プログラムが打ち出されていても、実を結ぶことは恐らくなかっただろう。
それから何年か経って初めて、国民のムードと見事にかみ合うこととなった。
カーター氏の悲劇はその手腕にあったのではなく、タイミングにあった。
今日の英国には、カーター時代の米国と同様、有権者が周囲を見回して「もううんざりだ」とついに口にする瞬間まであと数年の時間が残されている。