豊川(愛知県)に残された「霞堤」(かすみてい)の流域住民から本連載「川から考える日本」宛で情報提供があった。
霞堤とは、意図的に不連続の堤防を築き、増水時にはわざとそこから水を溢れさせて下流域を洪水から守る、戦国時代に始まったとされる治水方法だ。かつては日本各地に存在した霞提も、近代化の中で河川の護岸工事が進み、その姿を消しつつあるが、近年は異常気象に伴う豪雨被害が頻発していることもありその機能が見直されつつある。
豊川は、その霞提が残る珍しい地域だ。
そして情報を寄せてくれたのは豊川市金沢町内会の霞堤対策委員長を務める小野田泰博さん(46歳)だ。寄せられた情報は、河川の増水時に浸水被害を余儀なくされる「霞堤地区」で受忍させられている4つの問題だ。
霞堤は「先人の知恵」だという好印象を持っていた筆者にとって、被害を訴える声に出会うのは初めてだった。機会をとらえて、現場へ向かった。
過去、現在、将来の治水対策が混在
すると、そこは、過去と現在と将来の治水対策が混在した現場だった。その間(はざま)に置き去りにされ、河川管理者や防災担当者が見て見ぬふりをしている問題があったのだ。
小野田さんが指摘する4つの問題の1つ目は、豊川の治水の柱は、遠く離れた上流で建設中の設楽ダムだが、完成しない間にも、下流の霞堤地区では、氾濫が頻発し続けていることだった。
小野田さんが知る限り曽祖父の代から引き継いで暮らしている霞堤地区は、江戸時代に吉田城・城下町を守るために霞堤となった9地区の1つ、金沢地区だ。
それら霞堤による中世の治水が、ダムと堤防で水位を下げる現代の治水に移行し始めたのは1938(昭和13)年。国は蛇行する豊川下流部に豊川放水路を作り始めた。完成したのは1965(昭和40年)。続いて1967(昭和42)年までに、西側(右岸)の5つの霞堤は閉め切られて現代的な連続堤防となった。
霞堤地区の現場を回りながら小野田さんは、「国土地理院の治水地形分類図で見ると、金沢では皆、黄色で塗られた小高い微高地に住んでいることがわかります」とスマホを向けて見せてくれた。