辰巳ダムは、金沢市中心部から車で約30分走ると見えてくる。緑が繁茂し、ダムの壁が見えなければ、そこがダム湖だとは気がつかない(冒頭写真)。石川県による最初の構想では、ここを水没させたうえで、文化遺産「辰巳用水」の取入口も破壊するはずだった。その計画は、住民による情報開示請求と住民監査請求で打破された。それはどんな運動だったのか。約40年に及ぶ辰巳ダム建設反対運動の記録集「うつくしき川は流れたり」(2019年発行)を手がかりに、運動を担った人々に話を聞いた。
破壊されかけた文化遺産「辰巳用水」
辰巳用水。それは、加賀藩主のもとで江戸時代に築造された。金沢城の「辰巳」(東南)方向から流れる犀川(さいがわ)から取り入れ、河岸の台地の縁を掘った隧道(ずいどう)を流れる。約9キロ先の日本三名園の一つ「兼六園」に水を引く用水だ(下記写真参照)。
400年以上にわたって自然地形と標高差だけで水が届く、この稀有な技術を今に遺す辰巳用水の要である取入口「辰巳東岩取入口」を潰して石川県が造ろうと1975年に着手したのが辰巳ダムだった。
「2012年に辰巳ダムは完成しましたが、『辰巳用水の破壊』というダムの副作用を止める運動から始まって、情報公開制度の成立が一つのターニングポイントとなり、ダムの主作用である治水・利水の問題を明らかにしました。それがこの運動の特徴です」と振り返ったのは、市民団体「兼六園と辰巳用水を守り、ダム建設を阻止する会」(通称「辰巳の会」)のまとめ役だった碇山洋金沢大学教授だ。
住民運動が守り通した「辰巳用水」は、やがて2010年に国史跡に指定され、2018年には土木学会が土木遺構に選奨することになった。