球団の赤字は親会社の広告宣伝費扱いに

 1954年、国税庁は「職業野球団に対して支出した広告宣伝費等の取扱について」という通達を出し、プロ野球球団が出した赤字を損失補填した際に、これを「広告宣伝費扱いにする」ことを容認した。親会社はこの税制的な優遇を利用して、赤字を補填してしのいできた。

 しかし、それにも限界がある。

 大毎オリオンズは1963年に身売りし、東京オリオンズを経てロッテオリオンズに。東映フライヤーズは1972年に日拓フライヤーズ、さらに日本ハムファイターズに、同じく西鉄ライオンズも1972年太平洋クラブライオンズ、クラウンライターライオンズを経て西武ライオンズに。1988年には老舗の南海ホークスがダイエーホークスに、同じく阪急ブレーブスがオリックス・ブレーブスへ。

ダイエーへの球団売却が決定し、本拠地・大阪球場での最終戦を終えた南海ホークスのナインたち。球団旗を持ち場内を一周しスタンドのファンに別れを告げた。手を振るのは杉浦忠監督=1988(昭和63)年10月15日(写真:共同通信社)
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 昭和の終わりころには、パの6球団のうち、近鉄を除く5球団の親会社が変わった。

 セ・リーグでも大洋が横浜に、国鉄がサンケイからヤクルトへと親会社を変えた。それだけプロ野球の運営は厳しいものだったのだ。

 昭和の時代、プロ野球は日本人の最大の娯楽になった。その最大の功労者が巨人、読売ジャイアンツであるのは言を俟(ま)たないが、12分の1の球団にあまりにも人気、影響力が集中したことで、様々な矛盾も噴出することになった。