太平洋戦争の戦局悪化に伴い、1943年には甲子園大会も大学野球もすべて中止になり、戦前の「野球」は中断した。

「なぜ甲子園大会が2つある? 1つでよくないか?」

 終戦後、進駐軍がやってきて日本社会はアメリカを中心とする連合国の支配下に入る。GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)で民生を担当するウィリアム・マーカット経済科学局長は、セミプロ野球選手だった経歴もあり、野球の振興には積極的だった。

 敗戦の翌年である1946年にはプロ野球に続いて中等学校野球の再開も認可したが「なぜ、甲子園大会が2つもあるんだ? 1つでいいじゃないか?」と疑問を呈した。「春の甲子園」の主催者である毎日新聞の本田親男大阪本社編集局長(のち社長)は「春の甲子園には、勝ち抜くことで出場できる夏の甲子園とは異なる意義がある」とマーカット局長を説き伏せて、春の大会の存続を認めさせた。

 こうした経緯があるため「春の甲子園」は、今も夏とは違う「独自色」を打ち出す必要があるのだ。「21世紀枠」などはその流れだといえるが、その分、選考過程などに不明瞭な部分があり、毎年のように議論を呼んでいる。

 前述のように戦前の反省もあり、佐伯達夫らが奔走して高校野球を統括する団体である全国中等学校野球連盟(のちの日本高等学校野球連盟)が設立された。しかしいきなり独立した組織になったのではなく、朝日新聞と毎日新聞を説得し、設立にこぎつけた。このため当初の事務局は朝日新聞大阪本社内に設けられた。初代日本高野連会長には上野精一朝日新聞社主が就任した。

 日本高野連が大阪市西区に「中澤佐伯記念野球会館」を建設し、独立した本拠地を設けるのは1967年になってからだ。ちなみに「中澤佐伯記念野球会館」の名は、日本高野連の設立と基礎作りに多大な貢献があった二代目会長の中澤良夫と三代目会長の佐伯の名前を顕彰してつけられたものである。

日本高野連 二代目会長中澤良夫(左)、三代目会長佐伯達夫の胸像=中澤佐伯記念野球会館(筆者撮影)
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