明治末期、ブーム過熱でついには「野球害毒論」も

 開成学校の後身である「第一高等学校」では、野球熱が高まり、都下の学校との対戦で無敵を誇るようになった。また横浜に駐留する米国人や、米国艦艇の乗組員との試合でも好勝負を演じ、大いに国威を発揚した。いわゆる「一高時代」である。

 一高時代は1906年頃まで続いたが、慶應義塾、早稲田大学が立て続けに一高を破り、時代は「早慶時代」へと移っていった。両校が対戦する「早慶戦」は、学校関係者のみならず「満都の注目の的」となった。両校の知名度は飛躍的に上がった。今に至るも早慶は「私学の雄」とされ、大学でも別格のステイタスとなっているが、その始まりは「早慶戦」だった。

 しかし両校の対立があまりにも加熱したために、1906年、早慶戦は中止されるに至った。

 明治末年、野球ブームのあまりの過熱ぶりに「野球は将来ある学生に対して、害毒である」という「野球害毒論」が起こる。東京朝日新聞がこのテーマで連載記事を掲載した。

「野球は巾着切り(スリ)のスポーツ(新渡戸稲造)」

「対外試合のごときは勝負に熱中したり、余り長い時間を費やすなど弊害を伴う(乃木希典)」

 これに反対する論陣を張ったのが東京日日新聞、のちの毎日新聞だった。