各地の中等学校に野球を広めたのは、第一高等学校や早慶、明治学院などで学び、野球を体験したエリート教育者だった。初期の優勝校がいわゆるエリート校だったのは、そうした教員の指導によるところが大きい。

 しかし、中等学校野球ブームとともに、次第に商業学校、実業学校や私学などの「野球有名校」が頭角を現す。選手の引き抜きなども行われ、名門中等学校が全国大会に出場できなくなった。

 この現状を憂いた中等学校関係者が、大阪毎日新聞に話を持ち掛けて、春休みに行う全国選抜中等学校野球大会が1924年に始まる。翌年からこの大会も甲子園を使用するようになる。「春の甲子園」の始まりだ。

 こうした経緯もあり、「春の甲子園」は、「夏」とは違う「独自色」を打ち出そうとした。選考は「野球の強さ」だけでなく「勉学」や「生活態度」なども考慮した。選考委員は候補校に出向いたが「挨拶」や「脱いだ靴をきちんと揃えているか」までチェックしたという。今は前年の秋季地方大会の結果に基づいて候補校を決めるが、それでも選考委員は候補校の視察を実施している。

学生野球の過熱ぶりを懸念、文部省は野球統制令を

 明治期から、大学野球は東京と関西では人気スポーツだったが「春夏の甲子園」によって「野球人気」は全国的なものになった。

 各地の中等学校など出場資格のある学校に次々と野球部が設立される。開始時の1915年に73校だった夏の甲子園の地方大会参加校は、1925年には302校、1934年には戦前最多の675校になる。

 これに刺激を受けて各地の新聞社は、中等学校の下の高等小学校などを対象とした野球大会を開催するようになる。中には、全国大会まで行うものがあった。

 朝日が始めた中等学校野球大会に倣って、こうした大会はすべて「トーナメント」だった。日本では、アメリカのようなリーグ戦は大学を除いてはほとんど行われなかった。

 しかし学生野球の過熱に懸念を抱いた文部省は1932年「野球ノ統制並施行ニ関スル件(野球統制令)」を発令し、大学、中等学校以下の野球大会に制限をかけた。特に「商業利用」は厳しく規制された。

 注目すべきは「野球統制令」を文部省が発令した時に、中等学校には発令を受けるべき野球連盟などの団体が存在しなかったことだ。このために文部省は、春夏の甲子園大会を主催する朝日新聞と毎日新聞に通達した。

 つまり戦前の中等学校野球は、新聞社がすべてを取り仕切っていたわけだ。当時、中等学校野球の運営に携わっていた佐伯達夫(のち日本高野連三代目会長)は、自主独立の団体の必要性を痛感し、戦後、日本高等学校野球連盟の設立に奔走することになる。